コラム

安倍元首相の死は民主主義の危機か

2022年07月12日(火)14時27分

従って、もしこの事件が後年歴史の教科書に載るとしても、それは「民主主義の危機」というキーワードとは別の現象として載ることになるだろう。それでは民主主義は危機に陥っていないといえるのか。

民主主義はいかにして危機に陥るのか

国家権力であれテロリストであれ、政治的な違いを暴力で解決しようという勢力が台頭してきた結果として一人の政治家の生命が失われたなら、それを民主主義の危機と呼ぶことは妥当だろう。しかし、理由を問わず、単に一人の政治家の言論が突如失われたこと自体を民主主義の危機と捉えるのは誤りだ。たとえば不幸にして突然の病で政治家が亡くなった場合は民主主義の危機とは言わないだろう。

そもそも民主政治の理念は、属人的なシステムを廃するところにあるといえよう。民主主義の政治家は、誰かが倒れても別の誰かによって代替可能であるのが望ましい。もちろん政治家になるには一定の人格や能力が必要だ。しかし他方で、政治の安定を特定のカリスマ政治家に依存させるのも健全とはいえない。統治するものと統治されるものの同一性こそ民主主義の原理だ。一人一人の民衆が、それぞれの立場と方法で政治に参画していくことが民主主義の理想なのだ。

しかしそのためには、民主主義の根幹としての公開性が十分に保障されていなければならない。たとえば公文書の隠蔽、廃棄、改竄は許されないし、ジャーナリズムも権力に忖度することなく、公正な報道を行わなければならない。また、公開の討論ではなく、献金と利権分配によって政治が動いてはいけない。

つまり民主主義の危機は、直接的な暴力によって市民の自由な政治参加を阻むことだけではなく、情報公開をコントロールすることや実質的な決定を密室で行うことなどによって、事実上、市民を政治から排除することによっても生じるのだ。この意味では、この間「民主主義を守れ」というスローガンを唱えていた政治家の中にも、すでに民主主義を危機に晒していた者が多数含まれていたことは指摘しておかなければならない。

透明性のある政治がテロリズムを防ぐ

そして政治の透明性を確保することは、今回のような私怨に基づくテロには当てはまらないが、政治的な目的でのテロの可能性については減らすことができる。ある政治家が政治目的で命を狙われるのは、その政治家が死ねば政治の力関係が大きく変わるとみなされているからだ。しかし民主主義が成熟し、属人的な政治が行われなくなれば、政治テロの意味がなくなる。また、市民やジャーナリズムが権力に忖度せず言いたいことを自由に言えるようになれば、特定の気骨あるジャーナリストを殺害する意味がなくなるため、リスクは低減されるだろう。

一部の言論人やマスコミでは「今回の安倍元首相の殺害事件を招いたのは、安倍政権への批判の激しさだ」という主張や「2019年に当時の安倍首相の街頭演説にヤジを飛ばした男が道警に排除された事件で、今年3月の札幌地裁の判決で道警が敗訴したことが警備の萎縮を招いた」という主張など、政権批判を制限するような議論が生じている。しかし本当はむしろ、より多くの忖度なき批判と議論が必要なのだ。

プロフィール

藤崎剛人

(ふじさき・まさと) 批評家、非常勤講師
1982年生まれ。東京大学総合文化研究科単位取得退学。専門は思想史。特にカール・シュミットの公法思想を研究。『ユリイカ』、『現代思想』などにも寄稿。訳書にラインハルト・メーリング『カール・シュミット入門 ―― 思想・状況・人物像』(書肆心水、2022年)など。
X ID:@hokusyu1982

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

NY外為市場=ドル下落、中東情勢を楽観 ユーロは2

ワールド

イラン核施設攻撃「中核部分破壊されず」と米情報機関

ビジネス

FRBバー理事、関税による持続的インフレを警戒 利

ビジネス

米住宅価格指数、4月は前月比‐0.4% 22年8月
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本のCEO
特集:世界が尊敬する日本のCEO
2025年7月 1日号(6/24発売)

不屈のIT投資家、観光ニッポンの牽引役、アパレルの覇者......その哲学と発想と行動力で輝く日本の経営者たち

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々と撤退へ
  • 3
    飛行機内で「最悪の行為」をしている女性客...「あり得ない!」と投稿された写真にSNSで怒り爆発
  • 4
    細道しか歩かない...10歳ダックスの「こだわり散歩」…
  • 5
    都議選千代田区選挙区を制した「ユーチューバー」佐…
  • 6
    「子どもが花嫁にされそうに...」ディズニーランド・…
  • 7
    イスラエル・イラン紛争はロシアの影響力凋落の第一…
  • 8
    「温暖化だけじゃない」 スイス・ブラッテン村を破壊し…
  • 9
    「水面付近に大群」「1匹でもパニックなのに...」カ…
  • 10
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 1
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 2
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の「緊迫映像」
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝…
  • 6
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
  • 7
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 8
    飛行機内で「最悪の行為」をしている女性客...「あり…
  • 9
    「アメリカにディズニー旅行」は夢のまた夢?...ディ…
  • 10
    ホルムズ海峡の封鎖は「自殺行為」?...イラン・イス…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊の瞬間を捉えた「恐怖の映像」に広がる波紋
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 9
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story