コラム

33時間かけてたどり着く決戦の舞台

2014年06月14日(土)13時05分

 フランクフルトでのトランジットまでは、完璧な旅に思えた。羽田から11時間。ふだんならおっくうに思うヨーロッパまでの長時間のフライトがそれほど苦にならず、なぜだかとても短く感じた。

 なにしろ今回はフランクフルトで飛行機を乗り換え、さらにリオデジャネイロへ向けて11時間飛ぶ。リオからさらにブラジル国内線に乗り換えて、日本代表が初戦を戦う北東部のレシフェまで3時間飛ぶ。

 待ち時間も含めると、実に33時間の旅。僕にとってこんなフライトは初めてで、フランクフルトまでは全旅程の3分の1でしかないと覚悟を決めていたから、最初の11時間を軽くやり過ごせたのだろう。「次にヨーロッパに来るときは、楽に思えるだろうな」などというお気楽なツイッターを、乗り換え便を待つ間にしてしまったほどだ。

 ものごとの道理を知らないというのは、たぶんこういうことを言うのだろう。僕はフランクフルトまでの11時間と同じ調子で、リオまでの11時間のフライトも過ごせると思い込んでいた。まったくもって大きなまちがいだった。どう考えても、フランクフルトまでの11時間と、そこからリオまでの11時間の間には大変な差があるはずだからだ。

 それはリオまでの11時間を、僕がフランクフルトまでの11時間分の疲労をため込んだ上に経験するという点だ。案の定、フランクフルトからリオまでの乗り換え便に乗ったとたん、疲労感は加速度的に増していった。ワインを2杯もらったら、わりにすぐに眠れたのでよかったが、サッカーでいう「足が止まる」という状況に似ていると思った。前半に飛ばしすぎると、終盤になってパタリと足が止まる。

 そんな旅の末にたどり着いたレシフェは、ブラジルの北東部にある人口150万人の都市である。空港からタクシーでホテルに向かい、シャワーを浴びてから街に出る。正午を回ったところだが、日差しが強い。気温はおそらく27〜28度。湿度も高く、今の関東地方の気候とそれほど変わらないだろう。

 今日(13日)は僕にとってブラジルの初日なので、欲張らない程度に街の様子を見に行くことにする。歩きはじめてすぐに気づくのは、ブラジルの国旗が目立つことだ。レシフェには(おそらくブラジルの多くの都市と同じように)高層マンションがたくさんあるのだが、そのベランダや窓に緑の国旗がいっぱい掲げられている。道路は車線が多くて、のどが排ガスでいがらっぽくなるくらいの交通量なのだけれど、ここでも多くの車が国旗をつけて走っている。

「反ワールドカップ」系のメッセージは、きょう歩いたかぎりではひとつも目にしなかった。むしろ一般の家で窓に国旗を掲げるというセンスは、ワールドカップになると白地に赤い十字のセントジョージクロス(「イギリス」ではなく「イングランド」の旗)を窓に掲げる家が増えるロンドン郊外と同じように思えた。

 ネット上で確保している観戦チケットを発券する必要があって、FIFAのチケットセンターに行く。ちょっとトラブルがあり、スタッフの手際の悪さにイラついてしまったが、こういうときは日本を基準に考えないようにしている。日本で求められているサービスのレベルのほうが高すぎるのだ(その高いサービス水準を維持するために、日本社会が多大な代償を払っていることも事実だと思う)。

 突然、とても空腹を覚える。チケットセンターを出たのは午後2時半くらいだったのだが、昼食を食べていない。それどころか今日になって口にしたのは、リオからの国内線の中で出されたクラッカーみたいなものだけであることに気づく。

 チケットセンターがあるのは「ショッピング・レシフェ」という、世界のどの国にもひとつはありそうなショッピングモールだ。疲れがたまっているので志は低く抑え、このモールで何かを食べることにする。幸いなことに、わりと大きなスクリーンにワールドカップ中継を映していて、客がこの時間からアルコールを飲んでいる店が見つかる。

 メニューがポルトガル語のものしかないので、スタッフに英語でおすすめを尋ねる。そのなかからサラダと、魚のグリルをお願いする。魚だということ以上のことはわからなかったが、とてもおいしかった。モッツァレラチーズを使ったサラダも、機内食を5食続けて食べた体にはしみわたった。地元のピルスナービールも個性があってうまかった。

 ひと心地ついている間に、目の前のスクリーンにスペイン代表のシャビやイニエスタが映りはじめる。気持ちに余裕がなかったせいで忘れていたが、午後4時からスペイン─オランダという大変なカードが始まるのだ。見られる場所にいたのはラッキーだったけれど、試合を見るには最高の席に座っていたので店側からのプレッシャーも強まってくる。ビールが空いたら、すぐにスタッフが「ワンモア?」と聞いてくる。

 イエスと何度か言ううちに、ビールの酔いが33時間の旅の疲れをいい感じで引き出しはじめたらしい。試合をしている選手たちより先に、僕の左の太もものあたりがつってくる。なかなか痛みがとれないので、ちょっとだけ店の外に出て脚を伸ばしていたら、中から大歓声が聞こえる。ロッベンがものすごいゴールを決めて、オランダが2-1と逆転したのだ。次に右の太ももがつってくる(ロッベンではなく、僕のだ)。また外へ出る。すると今度はファンペルシーがゴールを決める。僕はついに左脚のすねがつってくる。また外へ。その間にロッベンがなんと5点目を決める。大変な試合になったのだが、脚の不調のせいで絶好調なオランダの3ゴールを見逃してしまった。

 でも、ブラジルの初日の過ごし方としては悪くなかったのだろう。疲れもとれてきたし、なによりワールドカップを開いている国の空気を楽しめた。レシフェの人たちはやさしいみたいだ。車が走ってくるところへちょっとタイミング的に無茶な道路の渡り方をしてしまったときがあったのだが、運転していた男性はわざわざ車のスピードを緩め、窓を開けて笑みを返してくれた。スーパーのレジに並んでいたら、周りの人たちがきみはかごの中の商品が少ないからと言って順番を譲ってくれたりした(前の3組くらいは、たしかに大変な量の買い物をしていた)。

 危ないことがあったわけでもなく、僕にとっては「ハッピー・ワールドカップ」としか言いようのない初日だった。日本代表がまもなく決戦のときを迎えるのは、そんな街だ。

プロフィール

森田浩之

ジャーナリスト、編集者。Newsweek日本版副編集長などを経て、フリーランスに。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)メディア学修士。立教大学兼任講師(メディア・スタディーズ)。著書に『メディアスポーツ解体』『スポーツニュースは恐い』、訳書にサイモン・クーパーほか『「ジャパン」はなぜ負けるのか─経済学が解明するサッカーの不条理』、コリン・ジョイス『LONDON CALLING』など。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米FBI長官「信頼できる情報ない」、エプスタイン事

ワールド

パレスチナ国家承認、適切な時期含め総合的な検討継続

ビジネス

ネスレ会長が早期退任へ、CEO解任に続き 体制刷新

ビジネス

トランプ氏が解任の労働省前高官、「統計への信頼喪失
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェイン・ジョンソンの、あまりの「激やせぶり」にネット騒然
  • 2
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 3
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 4
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがま…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 7
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 8
    「なにこれ...」数カ月ぶりに帰宅した女性、本棚に出…
  • 9
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 10
    「この歩き方はおかしい?」幼い娘の様子に違和感...…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story