コラム

雇用改革なしに「デフレ脱却」はできない

2013年10月22日(火)15時52分

 安倍政権の「第3の矢」である成長戦略が発表された。その目玉は、特定の地域に限って規制を緩和する国家戦略特区だ。混合診療や容積率や農地の用途制限など、官僚の抵抗の強い規制を特定の地域に限って緩和し、弊害がなければ全国に広げようというものだ。

 中でも注目されたのは、解雇ルールの設定だ。これは金銭的な補償などの条件を事前に決め、労働者がそれに同意して雇用契約を結んだ場合には解雇できるルールを特区の中だけでつくろうというものだが、朝日新聞は産業競争力会議のワーキンググループで議論が始まったばかりの9月から、これを解雇特区と名づけて「遅刻したら解雇される」などと激しくネガティブ・キャンペーンを張った。

 もちろん政府はそんな名前をつけていないが、「解雇特区」という見出しだけ読む読者は「クビを切りやすくする特区なんて冷酷だ」と思うだろう。案の定、当初案は後退に後退を重ねたあげく、最終案では雇用についての特区はなくなった。正社員の特権を守ることが正義だと思い込む古典的左翼が、まだ日本には残っているようだ。

 産業競争力会議にも作戦ミスがあった。厚労省は「世界的にも特定の地域だけ労働者保護に例外をつくっている国はない」とか「ILO(国際労働機関)条約違反になる」などと抵抗した。推進側は「専門職や大学院卒に限る」と譲歩したが、厚労省はそれでも「人権に抜け穴をつくることは許されない」と全面拒否し、連合や日弁連なども応援した。

 彼らの主張にも一理ある。容積率や農地の用途などは地域ごとに規制が違ってもさほど問題はないが、特定の地域だけ労働者保護を弱めるのは無理があり、競争条件も不公平になる。結果的には雇用特区はゼロ回答になり、厚労省の全面勝利に終わった。

 他方、当コラムでも批判した労働契約法の「5年を超えたら正社員にしろ」という規制は、全国一律に10年に延長された。大学の非常勤講師などに大きな影響が発生し、厚労省も折れざるをえなかったのだろうが、もともとこんな規制は去年までなかったのだから、撤廃するのが筋だ。

 専門職などについて労働時間の制限をなくす「ホワイトカラー・エグゼンプション」も、どさくさにまぎれてつぶされてしまった。雇用規制のような全国に影響が及ぶルールを、特定の地域だけ緩和するのは筋が悪い。やるなら少しずつでも全国一律にやるべきだ。労働契約法のように、厚労省もまずいと思ったら譲歩するのだ。

 日本経済の停滞をまねいてデフレを発生させているのは、安倍首相の勘違いしているように金融政策ではなく、日本的雇用慣行がグローバル化に対応できていないことだ。新興国との価格競争で、製造業のコスト削減は避けられないが、企業が正社員の雇用を守ったまま新規採用を絞って対応しているから、労働者の4割近くが非正社員になり、平均賃金が下がったことがデフレの最大の原因だ。

 だからデフレは、環境の変化に適応できない日本企業の自律神経失調で起こった低血圧症のようなもので、その原因をなおさないと脱却できない。日本経済の足枷になっている雇用規制に手をつけないで、日銀の「異次元緩和」や財界への「賃上げ要請」でデフレを脱却しようとする安倍政権は、血圧計の目盛りをいじって低血圧をなおそうとする藪医者のようなものである。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

金現物が最高値、4200ドル視野 米利下げ観測や米

ビジネス

サッポロHD、不動産事業売却で「決定した事実ない」

ワールド

IMF、世界市場の「無秩序な調整」警告

ワールド

ハマス、4人の遺体引き渡し イスラエルは遅延理由に
MAGAZINE
特集:日本人と参政党
特集:日本人と参政党
2025年10月21日号(10/15発売)

怒れる日本が生んだ「日本人ファースト」と参政党現象。その源泉にルポと神谷代表インタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道されない、被害の状況と実態
  • 2
    まるで『トップガン』...わずか10mの至近戦、東シナ海で「中国J-16」 vs 「ステルス機」
  • 3
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 4
    「心の知能指数(EQ)」とは何か...「EQが高い人」に…
  • 5
    【クイズ】アメリカで最も「死亡者」が多く、「給与…
  • 6
    「欧州最大の企業」がデンマークで生まれたワケ...奇…
  • 7
    イーロン・マスク、新構想「Macrohard」でマイクロソ…
  • 8
    「中国に待ち伏せされた!」レアアース規制にトラン…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「中国のビットコイン女王」が英国で有罪...押収され…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな飼い主との「イケイケなダンス」姿に涙と感動の声
  • 3
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 4
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
  • 5
    中国人が便利な「調理済み食品」を嫌うトホホな理由…
  • 6
    ベゾス妻 vs C・ロナウド婚約者、バチバチ「指輪対決…
  • 7
    時代に逆行するトランプのエネルギー政策が、アメリ…
  • 8
    ウクライナの英雄、ロシアの難敵──アゾフ旅団はなぜ…
  • 9
    「中国のビットコイン女王」が英国で有罪...押収され…
  • 10
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道され…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 3
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 4
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に.…
  • 5
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 6
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 7
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最…
  • 8
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    数千円で買った中古PCが「宝箱」だった...起動して分…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story