なぜ、日本は<異端>の大学教授を数多く生み出したのか
ではマスコミで知られている官僚から大学教授に転身した例(過去から現在)を挙げよう。
90年代の住専問題で銀行に多額の公的融資を認めた元大蔵省(現在は財務省)銀行局長の西村吉正氏は、退任後、2007年に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授として就任し、2010年に定年となっている。かつての早稲田大学からすれば、行政権力の象徴である中央省庁の高級官僚を専任教授として迎え入れるなど考えられないことである(彼は早稲田大学教授に就任以前は博士号はなく、就任後、2003年に勤務先のアジア太平洋研究科から博士[学術]を付与されている)。
また、現在でも経済評論家としてテレビ等で活躍している青山学院大学特別招聘教授(2010年就任)の榊原英資氏は、大蔵省の財務官から、慶應義塾大学グローバルセキュリティ研究所長・教授、早稲田大学総合研究機構・客員教授(専任扱い)を経て、現職。経済政策の評論では有名であるが、経済政策に関する学術的な著作や論文を読者の皆さんは見かけたことがあるだろうか(榊原氏は政府の在学研修生として派遣されたミシガン大学で博士号を取得している)。
中央大学大学院法務研究科教授の森信茂樹氏も、財務省・財務総合研究所長を経て、2007年から現職。
竹中平蔵氏(元金融・財政担当大臣、総務大臣)の秘書官を勤めた元経済産業省の岸博幸氏は、慶應義塾大学のデジタルメディア・コンテンツ統合研究機構准教授(2006年)を経て、2008年に同大学院メディアデザイン研究科教授となっている。
他方、竹中氏は政界を退いた後、慶應義塾大学総合政策学部教授となり、同大学定年後、東洋大学国際地域学部教授、現在は同大学国際学部グローバル・イノベーション学科教授となっている(東洋大学は65歳が定年であるが、特別な場合に限り、教授としての任用が認められている)。
彼も小泉内閣時代(2001年4月~2006年9月)の大臣在職当時ほどではないが、メディアへの露出度は高い。
一般的には、中央省庁の官僚が大学教授へ転身するようになったのは大学設置基準緩和以降のことと思われているが、歴史を繙いてみるとそうではないことがわかる。
前述したように、明治時代、帝国大学(現在の東京大学)が設置された頃に、正統なアカデミック教授ではない、行政実務経験を積んだ官僚が社会人教授として登用されていたのである。
西欧の近代化に追いつくために、すぐれた行政官僚を養成するべく帝国大学を設置したが、外国人教師だけでは人数が足らず、帝国大学卒業生で官僚になった人材から大学教授を招聘したのであった。
とりわけ、東京帝国大学に経済学部が誕生した際には、河合栄治郎(農商務省)、大内兵衛(大蔵省)、矢内原忠雄(住友総本店)などが、また、法学部には、田中耕太郎(内務省)、南原繁(内務省)、高木八尺(大蔵省)などが社会人助教授として就任し、後に教授となっている。
この背景には大学教員の人材不足があるが、この時代にすでに、大学と行政・企業の世界との人事交流があったとみてもおかしくはないだろう(『大学という病』竹内洋、中央公論新社、2001年)。