コラム

内田光子さんの人気を手放しで喜べない理由とは?

2011年02月16日(水)11時52分

(C) Berliner Philharmoniker / Youtube

 グラミー賞のクラシック音楽部門の受賞というのは、純粋なクラシックのCDのアルバムがアメリカという大きな音楽マーケットで認知されたという意味であることは間違いありません。その点で、今回モーツアルトの協奏曲を「弾き振り」した内田光子さんのCDが受賞したというのは、現代のピアノ演奏における「内田スタイル」がメジャーなものとして音楽ファンの間に受け入れられているということを示していると思います。

 私は内田さんのアメリカでの演奏は、プリンストンでのリサイタルや、NYフィルとのラベルの協奏曲などで経験していますが、その人気は大変なもので、今や人気というよりもピアニストの中でも最も尊敬を受けている存在と言って構わないように思います。特に、モーツアルト、ベートーベン、シューベルトというオーストリアの古典に関しては、アルフレッド・ブレンデルが引退した今、世界的にも内田さんが最高権威ということになると思います。

 では、この内田さんの演奏スタイルは西洋音楽の正統を引き継ぐものかというと、私はそうは思いません。内田さんのスタイルには決定的な特徴があるからです。それは「拍節感を弱めている」ということです。多少専門的になるものの、音楽とは何かという議論の非常に大切な部分だと思うのでお付き合いいただきたいのですが、拍節というのは例えば4拍子の場合に「イーチ・ニ・サン・シ」というリズムの取り方をするように「4つの拍子は均等でない」ということです。この場合、イーチが一番長く強く、サン(3拍目)が次に長く、2拍目と4拍目は短く弱いのが多くの場合自然です。3拍子ならば「ズーン・チャッ・チャッ」で最初のズーンが長く強いわけで、三拍を均等に揃えたら恐らくワルツは踊れない・・・そんな話です。

 ところが、内田さんの場合は、例えば得意のベートーベンやシューベルトなどで顕著なのですが、この拍節感を非常に弱めているわけで、もっと言えば拍子の揃った「均等拍」というリズムに近いのです。この均等拍というのは、曲想によっても違いますが、多くの場合は楽曲の躍動感やメロディーの生命感を殺し、音楽をツルツル・ピカピカの平板なものにしがちです。「ズーン・チャッ・チャッ」のワルツが「チャッ、チャッ、チャッ」では踊れないように、拍節を失った音楽は生気を失ってしまうのです。

 均等拍の欠点としては、休符のニュアンスが変わってしまうということも問題です。強拍と弱拍が混在するような拍節感のある音楽では、休符も強拍(長め)だったり弱拍(弱め)だったりします。例えば、小節の最後の弱拍が休符という書き方の曲はたくさんありますが、拍節感がちゃんとある演奏では、休符にあるスッと息を吸う呼吸感が「次の強拍に始まる新しい何かへの期待」になって音楽が途切れることなく流れていくのです。逆に均等拍の場合は、休止は単に「前のエピソードの終わり」になって音楽が「ブツ切り」になってしまうことが多いように思います。

 内田さんの場合は、実はそうした均等拍の特徴を使いこなしていて、得意のシューベルトなどではキーの変わる(転調)直前の休符に「期待感」の代わりに「完結感」を与えています。実はこの辺りに内田さんのマジックがあるのです。フレーズが終わった後の休止に重みを感じさせるだけでなく、拍子が均等な代わりに、メロディーの歌いまわしが丁寧だとか、フレーズが変わるごとにテンポを動かし強弱をコントロールして新鮮味を出すというような表現も多用されています。もっと言えば、均等拍の表現がデフォルトになっていて、それが真っ白なカンバスになり、その上に極めて意図的・知的な表現が散りばめられているとも言えます。演奏としては特徴が分かりやすく、しかもシリアスで知的な印象をあたえる結果となっています。

 ですが、内田さんの均等拍というのは私にはやはり気になります。というのは、内田さんのように西洋文明の歴史や哲学などを知的に分析して作曲家の思想性に独自の解釈を作り上げ、それを細かな表現技法に乗せて表現しているようなプロ中のプロには良いのですが、ピアノ演奏を勉強している若い人には、あまり勧められないからです。とにかくメトロノームを速度の基準に使用するのはともかく、あの機械的な「ビート」に拍子の感覚を頼って練習するのは弊害があるように思います。音楽の生気が失われ、極端な場合は音楽が死んでしまうからです。

 クラシックに限った、それも重箱の隅をつつくような議論という印象を持たれたかもしれませんが、実はこの問題はクラシックだけではないのです。「次の拍への期待感」を重視する感覚は、ポップミュージックの場合の「アップビート」の美学に通じると思うのですが、多くの日本のバンドはこの「アップビート」が苦手だとよく言われます。「ン・チャ」の「ン」で沈み込んで、二拍目の「チャ」で立ち上がる感覚がなかなかつかめずに、「ドン・ツク、ドン・ツク」という「頭の重いダウンビート」のリズムになってしまう傾向があるというのです。ちなみに、打ち込みの機械的ビートの場合でもグルーヴ感を乗せることは可能ですが、その場合もメロディーとの相関に加えてベロシティ(強弱)のメリハリをつける方が効果的なわけで、これも「均等拍」ではダメだという話に通じるように思います。

 均等拍やダウンビートに流れてしまうのは突き詰めて考えると、リズムの「正確性」だけが優先されて、本当の音楽に必要な「身体性・自発性・即興性」が軽視されているからだとも言えます。その点で考えると、日本の伝統音楽に関して言えば、雅楽、邦楽から民謡、演歌に至るまで「身体性・自発性・即興性」に満ちた音楽性は十分にあったわけで、問題は西洋音楽の受容にあったという指摘も可能です。メカニカルな正確性だけを追求して、音楽の自然な生命感を伝えない指導様式は、静的な知識や定型作業の反復訓練に偏った教育の問題などとも呼応しているようにも思われます。

 内田さんの演奏様式は、そうした日本的とも言えるメカニカルな均等拍を逆手にとって、一旦音楽に透明感を与え、その上で知的な解釈たっぷりの表現を乗せたユニークなものです。私はそれはそれで美しいと思いますし、世界から評価されるのも分かります。恐らくは、その録音については永遠に残る業績ともなるでしょう。ですが、そのスタイルを真似するのが良いことかというと、それはまた別の話だと思うのです。

(参考文献)『フルトヴェングラーの苛立ち、ダルクローズの怒り : 拍節論の観点から読む』ほか(阿部卓也、関西学院大学)http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/handle/10236/1664



ベルリンフィルによる内田光子インタビュー (C) Berliner Philharmoniker / Youtube

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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