コラム

アメリカの入試制度の盲点を突いた不正入学事件

2010年05月21日(金)11時48分

 金融危機以来の財政難に悩むハーバード大学で、また1つ頭の痛い問題が発生しました。大胆な経歴詐称を行った受験生を見抜けずに入学を許可したばかりか、多額の奨学金も支払っていたというので、ニューイングランド地方はもとより、アメリカの東北部ではこの事件が大々的に報じられています。逮捕されたのは、アダム・ウィーラーという23歳の学生で、ウソで塗り固めた願書を使って、ハーバードに転入した後も、様々なウソを重ねて来たのだと言います。

 虚偽内容を含む申請の中には、世界的な権威のある「ローズ奨学金」を獲得して英国に留学しようという願書もあったのですから大胆と言わねばなりません。さて、このウィーラー容疑者、勿論、放校処分になっているのですが、そのハーバードに潜り込んだ手口というのが、実に単純なのです。ウィーラー容疑者は、デラウェア州の公立高校を卒業して、メイン州のボードウィンという中堅大学に行っていたのですが、1年生の途中で、「自分はメイン州の私立高校を卒業してMIT(名門マサチューセッツ工科大学)に入学、MITで1学期にオールAを取った」という資料をデッチ上げてハーバードに転入の願書を出したのでした。

 何とその転入の願書が受理されてしまい、ウィーラー容疑者はハーバードの学生になったのでした。後日の調査によれば、この時の願書で使われた「ウソ」は簡単に見破られるものだったそうです。例えば、MITは入学最初の学期にはABC形式の成績は出しておらず、「秋学期のオールA」などというのはあり得ないそうですし、出願に当たって添付した推薦状は全て捏造で、名前は全てMITではなくボードウィン大学の教授のものをMIT教授だと偽っていたのだそうです。ですが、受理された願書は、そのまま通ってしまったのです。

 ハーバードも全く書類だけで転入を許可するようなことはしておらず、ウィーラー容疑者の転入願書を受け取ると、卒業生を派遣して面接をしています。急な設定だったようで、ウィーラー容疑者はMITに移動することもできず、ボードウィン大学でハーバードの面接を受けたのだそうですが、その際に卒業生の面接官が「キミは、どうしてMITのキャンパスではなく、ボードウィンにいるのか?」と聞いたところ「MITの単位は集中講義で取ってしまったので、知り合いのボードウィンの先生の著書の出版を手伝っているんです」という言い逃れをして、その時はそれでOKになったというのです。

 その後、様々なウソを重ねて行って、最後はこれも転入を申請していたイエール大学が感づいて、自宅の両親に電話がかかってきて全てが明るみに出たのですが、そのウソというのは、奨学金やインターンの申し込みなど様々な出願のたびに大胆になっていったそうです。ニューヨーク・タイムスの記事によれば、ある願書では「自分は語学に堪能で、フランス語と、英語の古語、アルメリア古語、古代ペルシャ語が話せます」とあったそうです。こうなると、プロの詐欺師というよりも、どこか病的なものを感じます。虚言癖と言いますか、あるいは何かエリート校に対するコンプレックスのような心理でもあったのかもしれません。報道でも言われていたのですが、天才詐欺師の孤独を描いたスピルバーグ監督の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』を思い浮かべた人も多いようです。

 この事件ですが、ハーバードなどの伝統校は、同じ伝統校のMITとか有名な私立高校
の「ブランド」に弱く、まんまと騙されたという「格差社会」の象徴という言い方もできると思います。ですが、そうした解説は事件の背景説明としては、余り意味がないように思うのです。背景にあるのは激しい競争です。最初に申し上げたように、現在アメリカの各大学は、財政基盤の脆弱化に苦しんでいます。そんな中、各校の焦りは、支払能力のある富裕層の学生集めに走るような形にはなっていないのです。

 そうではなくて、より優秀な学生を集めたい、その必死の思いがあるのです。仮にその学年の合否を決めてしまって、最終入学者が確定したとしても、入試事務室の仕事は終りません。優秀だが他校に行った学生を編入という形で、1人でも多く引っこ抜きたい、それがホンネなのです。勿論、表面は非常に紳士的な世界ですから、表だった引き抜き合戦はありません。ですが、編入願書に対して、その学生が優秀なら是非引っ張りたいという思い、あるいは焦りというものは強いのだと思います。

 単位交換を前提とした編入制度、これは「セカンドチャンス」の提供として機能する一方で、人材獲得合戦の場にもなっているというわけです。そう言えば、最近のアイビーリーグの「不合格通知」では、「今回の9月入学の対象にはならなかったが、あなたは非常に優秀だから、来年必ず編入の願書を出してくれることを待っている」という文言が多いようで、中には「自分が不合格ではなく、ある種の補欠なのか」と勘違いする学生も出る(実際は不合格通知なのですが)始末です。

 更にいえば、どうして各校が編入を重視するかといえば、高校までの表面的な成績では分からない、大学に入ってからの「伸び」を評価したいのと、必ず一定程度のパーセントは存在する「入学直後の燃え尽き症候群」を「元気な」学生と入れ替えたいという動機もあるようです。そんなわけで、今回の事件で、書類の審査は厳しくなるでしょうが、編入制度が下火になることはないでしょう。

 ところで、このウィーラー容疑者、一説によると起訴された罪状を足し合わせると禁固50年の刑になる可能性もあるそうです。では、スピルバーグの映画の主人公がFBIに詐欺のノウハウを伝授して罪状の一部を免責にしてもらったように、各大学の入試事務室に対して「願書不正のノウハウ」を指導して免責にしてもらう可能性はどうかといえば、これはなさそうです。詐欺としては余りにもお粗末な手口だったからです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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