最新記事

BOOKS

あなたはこの「音に出会った日」のYouTubeを観たか

2016年10月12日(水)11時15分
印南敦史(作家、書評家)


 いま感じる興奮、生きている実感はわたしにとってはじめてのものだった。
 耳が聞こえないのにナイトクラブに行ってどうするの、と思われるかもしれない。だが、そこがナイトクラブのいいところだ。音楽を感じることができる。体の中をビートが駆け巡っていれば、歌詞を聞く必要はない。(97ページより)

 つまり著者は、基本的に前向きなのだ。気が強いし、明るいし、決してへこたれない。しかし、それでも運命の不公平さを痛感せざるを得ないのは、29歳で「アッシャー症候群」だと判明したこと。視覚障害と聴覚障害を併せ持つ病気で、つまり、そう告げられた時点で見えていた目は、次第に見えなくなっていくというのである。

 しかも、そのおかげで看護婦になる夢を諦めなくてはならなかったりもする。盲導犬と思うようにいい関係を結べなかったりもする。そのため次第に悲観的、あるいは絶望的な表現が増えてくるのだが、それも仕方がないことだろう。

 だから中盤以降は読むのがつらくなってくるが、やがて朗報が入る。人工内耳移植手術を受ければ、耳が聞こえるようになるというのだ。そして結果的に手術は成功し、著者は生まれて初めて音を知ることになる。


ソーダ水のように興奮と感情が体から溢れ出す。手は震え、涙が顔を伝った。泣くまいとしても涙はとめどなく溢れ、膝にポタポタ落ちた。
 これがそうなのだ。わたしは聞いている。これが音だ。(221〜222ページより)

 人工内耳のスイッチが入った瞬間の描写は、あまりに生々しい。「これが音だ」という表現に、感情のすべてが凝縮されている。もとから耳が聞こえる人間でさえ読んでいるだけで心を揺さぶられるのだから、本人の感動たるや想像以上のものだろう。そしてその感動を表現する装置として、Chapter 16では音楽が重要な役割を果たすことになる。


わたしはトレメインの家のリビング・ルームで生まれてはじめて音楽を聴いている。想像していたのとはまったくちがっていた。
 子どものころ、スピーカーに耳を押し当てて聴いた、数百マイル彼方から聞こえて来るかすかなビートが、わたしにとって音楽だった。あるいは、ダンスクラブで流れていた、みんなを笑わせたり、ほほえませたり、泣かせたりするのが音楽だと思っていた。けっきょく、わたしはなにも知らなかった。
 音楽は聞くものではない、感じるものだ。わたしはいま、音楽に恋している。(236ページより)

 なお、著者がはじめて音を聴いたときのことはBBCラジオの番組で取り上げられ、その光景はYouTubeにアップされた。その結果、わずかひと晩のうちに世界中の人々に感動を与えることになり、取材が殺到したのだそうだ。

 そして、2人の聴覚障害者をメンバーに持つアメリカの兄弟ポップ・グループ、オズモンズから連絡を受け、2014年9月からは聴覚障害者を支援する「オリーヴ・オズモンド・ヒヤリング・ファンド」で働きはじめたのだという。このエピソードもまた、著者と音楽との関係性の深さを象徴している出来事だといえるかもしれない。

 なお巻末には、大きな役割を果たした著者の友人のトレメインが選曲したプレイリストが掲載されている。ロック・ステディ・シンガー、ケン・ブースの"Everything I Own"にはじまり、ハイムの軽快なロック・ナンバー"Don't Save Me"で幕を閉じる41曲は、著者の人生の1年1年から1曲ずつを選んでリストにしたもの。実際に聴きながら読み進めてみれば、本書はさらに鮮度を増すかもしれない。

【参考記事】「テロリストの息子」が、TEDで人生の希望を語った


『音に出会った日』
 ジョー・ミルン 著
 加藤洋子 訳
 辰巳出版

[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。2月26日に新刊『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)を上梓。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

石破首相「双方の利益になるよう最大限努力」、G7で

ワールド

米中貿易枠組み合意、軍事用レアアース問題が未解決=

ワールド

独仏英、イランに核開発巡る協議を提案 中東の緊張緩

ワールド

イスラエルとイランの応酬続く、トランプ氏「紛争終結
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 9
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 10
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中