最新記事

音楽

『サカナとヤクザ』のライター、ピアノ教室に通う──楽譜も読めない52歳の挑戦

2020年4月20日(月)11時55分
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

中学校で吹奏楽部に入り、クラリネットを相棒にした時も本当はピアノがよかった。しかし、いまさら言えない。修練に時間のかかる楽器だからだ。十代の前半でさえ、幼少期にはじめた人間とは歴然と埋められない差があった。ピアノに触れる許可書の申請は、とっくに締め切られているように感じた。

ロックンロールの洗礼を受け、迸るような生命力とパッションを浴びてからも、電子楽器に引けを取らず、どんなアレンジにも対応するピアノの自在さには舌を巻くしかなかった。クラシックからハードロックまで、ピアノはどんな音楽でも主役を張れた。

上京して入学した写真学科の暗室には、新宿の中古レコード屋で買ったセロニアス・モンクのLPレコードを、カセット・テープにダビングして持参した。ジャズ・ピアノのスイングを気取り、手ぶれやピンぼけの写真をアートと思い込んで焼いていたのだから痛々しい。ただ若さと勢いだけがあった。行きつけの居酒屋の娘さんが武蔵野音大でピアノの発表会に出ることになった時は、カメラ・メーカーから借りたバズーカ砲のような望遠レンズを持参して連写し、夜は大将のおごりで三日三晩飲み通した。

社会人になってカラオケをしても、西田敏行の『もしもピアノが弾けたなら』を、がなったりはしない。〝弾けない〞と居直りつつ、弾ければよかったとくだを巻く不甲斐なさが、我が身を見ているようで辛いのだ。いつか弾いてみたいという熱は消えず、仕事場のある神保町の編集プロダクションの帰り、お茶の水の楽器屋を冷やかし、弾けもしないのに電子ピアノに触ってにやけたりした。

そのうち人生は急激に忙しくなり、紆余曲折の末、ヤクザを取材する物書きになった。予想外もいいところで、クレームに怯えつつおっかなびっくり原稿を書き続けているうち、あっという間に五十歳を越えた。

「もうジジィだから......」

口ではそう言いながら、若いつもりだった身体にもガタが来て、老いを意識せずにはいられない。ならばまごまごしている時間はどこにもない。どうしてもピアノを弾きたい。

心身が柔軟な子供たちのように、コンクールに出場する腕前にはなれないだろう。それでも大人の優位は必ずある。たとえばそれぞれの仕事で学習のコツを摑んでいるし、単純な反復作業がブレイクスルーに繫がる意外性も経験している。困難を克服する方法も見つけられるし、自分がよく間違う自覚も持っている。なにより言語というツールで現象を深掘りし、ナイーブな子供が泣くような経験ですら客観的に楽しめる。

現代におけるカリスマ・ピアニストの一人であるヴァレリー・アファナシエフは『ピアニストは語る』にこう記している。


私は晩成型の人間です。たぶん今の方が昔より、ずっとよく音楽を理解できていると思います。

五十歳を過ぎてピアノをはじめた凡人だって同じだ。深い理解には相応の経験が大きな助けになるだろう。

生涯学習は素晴らしいと嘯(うそぶ)きたいのではない。何かをはじめるのに年齢は無関係と自己啓発をしたいのでもない。現実は残酷で不公平だ。どうせみんなくたばるのだ。では鬱々と人生を送ればいいのか。嫌だ。じゃあどうする。明るく笑い飛ばすしかない。

レッスンは冒険であり、レジスタンスだ。
ピアノは人生に抗うための武器になる。
俺は反逆する。
残酷で理不尽な世の中を、楽しんで死ぬ。

※後編:暴力団取材の第一人者、ABBAで涙腺崩壊──「ピアノでこの曲を弾きたい」


ヤクザときどきピアノ
 鈴木智彦 著
 CCCメディアハウス

(※画像をクリックするとアマゾンKindle版に飛びます)
(※楽天ブックスのプリント版のページはこちら

20200428issue_cover150.jpg
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2020年4月28日号(4月21日発売)は「日本に迫る医療崩壊」特集。コロナ禍の欧州で起きた医療システムの崩壊を、感染者数の急増する日本が避ける方法は? ほか「ポスト・コロナの世界経済はこうなる」など新型コロナ関連記事も多数掲載。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

決算に厳しい目、FOMCは無風か=今週の米株式市場

ビジネス

中国工業部門企業利益、1─3月は4.3%増に鈍化 

ビジネス

米地銀リパブリック・ファーストが公的管理下に、同業

ワールド

米石油・ガス掘削リグ稼働数、22年2月以来の低水準
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ」「ゲーム」「へのへのもへじ」

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 5

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 6

    走行中なのに運転手を殴打、バスは建物に衝突...衝撃…

  • 7

    ロシア軍「Mi8ヘリコプター」にウクライナ軍HIMARSが…

  • 8

    ロシア黒海艦隊「最古の艦艇」がウクライナ軍による…

  • 9

    「鳥山明ワールド」は永遠に...世界を魅了した漫画家…

  • 10

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 6

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 7

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 8

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 9

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 10

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の瞬間映像をウクライナ軍が公開...ドネツク州で激戦続く

  • 3

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈する動画...「吹き飛ばされた」と遺族(ロシア報道)

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 6

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 10

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中