最新記事
BOOKS

事件記者、保育士になる?「事件取材の鬼」と呼ばれた元朝日新聞記者が選んだセカンドキャリア

2024年12月18日(水)11時30分
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

右ポケットにセブンスター

式開始の1時間前に着きました。タクシーの勘定を済ませると、運転手さんが「いってらっしゃい、せんせい」と声を掛けてくださいました。いえ、いや、やはりそう見えますよね。

桜が咲き誇り、風光るキャンパスをぶらつくと、そこかしこに着慣れぬスーツ姿の若者たちがいました。みなさんマスクをしていて、表情が読み取れません。目の動きから気持ちを察する訓練を積んできました。緊張が伝わってきます。

おめかしをした保護者がにこやかにわが子を見守り、晴れ姿を撮影しています。慈しんで育てたお子さんのため、決して安くはない入学金や授業料を工面なさったに相違ありません。これからの2年間を楽しく、事故なく謳歌して。そう心底から願っていることでしょう。ご安心めされよ、万が一お子さんが危難に遭遇した折には、及ばずながら当方が救いの手を差し延べて進ぜますとも。

こんなに晴れやかで、希望に満ちた場に身を置くのは、約半世紀前の大学入学以来です。当時は入学式に親がついてくるなんて考えもしませんでした。もし参加を望んでも断っていたでしょう。しかし、世は少子化。子どもの晴れ姿は余さずに見届けたいのでしょう。

穏やかな心持ちになったところで一服したくなりました。喫煙所を探すも学内は無情にも全面禁煙です。当方が学生時代は、講義中の教室でも吸えたのになあ。隔世の感があります。やむなく近くのコンビニエンスストアへ。

40年以上苦楽を共にしているセブンスター、きょうも変わらずにうまい。でも子どもや妊婦さんをはじめ人さまがいるところでは絶対に吸いません。20歳未満の同級生にも喫煙は「ダメ、絶対」と言わなければ。

立て続けに2本ふかしながら、大人の務めを果たすことを誓いました。午前9時半すぎ、会場の講堂へ。

事件記者、入学式会場へ

それまで当方を保護者か教職員とみなし、安らかに見守ってくださっていた人たちの視線が一転、にわかに訝(いぶか)しむそれに変わりました。

無理もありません。フレッシュマンにほど遠い風体のおっさんが、野獣のごとき険しい目付きで周囲を睥睨(へいげい)しつつ、肩で風切りながら新入生の席に向かってずんずんと歩を進めるのですから。警備員さんに制止されなかったのが不思議です。

全身に突き刺さる視線シャワーを浴びていたら、記者時代の取材体験を思い起こしました。

「何しに来たんや、ワレ、おう?」

ある事件への関与疑惑を問いただすため、某所へ出向いたときでした。標的のそのお方は、大きな机の上に両足を揃えてでんと乗せている。こちらをねめつけながら詰問なさる。当方は動じていない風を装って来意を告げ、ソファに浅く腰掛けました。

どんなやり取りをしたか。詳しくは申し上げられませんが、相手はこちらが持っている情報を探りつつも一貫して関与を否定します。一問一答は後にメモ起こしをしたものの、大半は記憶の彼方です。

でも先端が鋭く尖り、ぴかぴかに磨き上げた白いお靴が目の前で小刻みに揺れていた様子はいまも忘れられません。そのお方との面会前、別室で配下と思われるごつい男性に「隠しマイクとか仕込んでないやろな、おう?」と、全身をまさぐられたのも震える思い出です。

それに比べれば、講堂に集う善男善女のみなさまが当方に向ける眼差しなんぞ恐るるに足りません。

「ご疑問あらばどうぞ遠慮なくご誰何あれ、おう?」

◇ ◇ ◇


著者本人が朗読してみた!|『事件記者、保育士になる』緒方健二著/YouTube

米田壮推薦文POP


緒方健二(おがた・けんじ)

1958年大分県生まれ。同志社大学文学部卒業、1982年毎日新聞社入社。1988年朝日新聞社入社。西部本社社会部で福岡県警捜査2課(贈収賄、詐欺)・捜査4課(暴力団)担当、東京本社社会部で警視庁警備・公安(過激派、右翼、外事事件、テロ)担当、捜査1課(殺人、誘拐、ハイジャック、立てこもりなど)担当。捜査1課担当時代に地下鉄サリンなど一連のオウム真理教事件、警察庁長官銃撃事件を取材。国税担当の後、警視庁サブキャップ、キャップ(社会部次長)5年、事件担当デスク、警察・事件担当編集委員10年、前橋総局長、組織暴力専門記者。

2021年朝日新聞社退社。2022年4月短期大学保育学科入学、2024年3月卒業。保育士資格、幼稚園教諭免許、こども音楽療育士資格を取得。得意な手遊び歌は「はじまるよ」、好きな童謡は「蛙の夜まわり」、「あめふりくまのこ」。愛唱する子守歌は「浪曲子守唄」。

朝日カルチャーセンターで事件・犯罪講座の講師を務めながら、取材と執筆、講演活動を続けています。「子どもの最善の利益」実現のために何ができるかを模索中です。

『事件記者、保育士になる』書影

『事件記者、保育士になる』
 緒方健二[著]
 CCCメディアハウス[刊]

(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)

ニューズウィーク日本版 トランプ関税15%の衝撃
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年8月5日号(7月29日発売)は「トランプ関税15%の衝撃」特集。例外的に低い税率は同盟国・日本への配慮か、ディールの罠

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米7月雇用7.3万人増、予想以上に伸び鈍化 過去2

ワールド

ロシア、北朝鮮にドローン技術移転 製造も支援=ウク

ビジネス

米6月建設支出、前月比0.4%減 一戸建て住宅への

ビジネス

米シェブロン、4─6月期利益が予想上回る 生産量増
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ関税15%の衝撃
特集:トランプ関税15%の衝撃
2025年8月 5日号(7/29発売)

例外的に低い日本への税率は同盟国への配慮か、ディールの罠か

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    日本人の児童買春ツアーに外務省が異例の警告
  • 3
    12歳の娘の「初潮パーティー」を阻止した父親の投稿がSNSで話題に、母親は嫌がる娘を「無視」して強行
  • 4
    カムチャツカも東日本もスマトラ島沖も──史上最大級…
  • 5
    【クイズ】2010~20年にかけて、キリスト教徒が「多…
  • 6
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 7
    これはセクハラか、メンタルヘルス問題か?...米ヒー…
  • 8
    一帯に轟く爆発音...空を横切り、ロシア重要施設に突…
  • 9
    枕元に響く「不気味な咀嚼音...」飛び起きた女性が目…
  • 10
    ニューヨークで「レジオネラ症」の感染が拡大...症状…
  • 1
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅で簡単にできる3つのリハビリ法
  • 2
    囚人はなぜ筋肉質なのか?...「シックスパック」は夜つくられる
  • 3
    いきなり目の前にヒグマが現れたら、何をすべき? 経験豊富なガイドの対応を捉えた映像が話題
  • 4
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベー…
  • 5
    日本人の児童買春ツアーに外務省が異例の警告
  • 6
    12歳の娘の「初潮パーティー」を阻止した父親の投稿…
  • 7
    中国が強行する「人類史上最大」ダム建設...生態系や…
  • 8
    いま玄関に「最悪の来訪者」が...ドアベルカメラから…
  • 9
    枕元に響く「不気味な咀嚼音...」飛び起きた女性が目…
  • 10
    【クイズ】1位は韓国...世界で2番目に「出生率が低い…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅で簡単にできる3つのリハビリ法
  • 3
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 4
    幸せホルモン「セロトニン」があなたを変える──4つの…
  • 5
    囚人はなぜ筋肉質なのか?...「シックスパック」は夜…
  • 6
    「細身パンツ」はもう古い...メンズファッションは…
  • 7
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 8
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップ…
  • 9
    ロシアの労働人口減少問題は、「お手上げ状態」と人…
  • 10
    いきなり目の前にヒグマが現れたら、何をすべき? 経…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中