コラム

変化するチベットと向き合う個人を鮮やかに描く:『草原の河』

2017年04月28日(金)14時00分

この映画では、無関係に見える断片的なエピソードが結びつき、私たちに主人公たちの内面を想像させる余白を生み出していく。それはたとえば、地面に穴を掘り、そこに何かを埋めたり、隠したりするというエピソードだ。

一家がハダカ麦の種まきをしているときに、母親から植えた種が増えると聞かされたヤンチェンは、植えれば何でも増えると思い込み、クマのぬいぐるみを畑に埋める。自分のぬいぐるみを生まれてくる赤ちゃんに取られたくないからだ。それは子供の無邪気な行動に過ぎないが、父親の嘘もまた埋めることと繋がっている。

グルは祖父に渡せなかった見舞いの品を帰り道に埋めていた。そのことが後ろめたくなった彼は、もう一度、娘を連れて祖父のところに行こうとするが、掘り出した見舞いの品はすでに悪くなっていた。そこで私たちは、袋の中身を取り出してみるヤンチェンの気持ちを想像する。

成り行きで父親の嘘の共犯にされ、乳離れのために母親から突き放されるヤンチェンは、今度は父親が大切にする天珠を穴のなかに隠してしまう。父親の嘘に納得できない表情を浮かべていた彼女が、彼と同じ行動をとり、自分の嘘に苦しむのだ。

この映画では、そんな埋めたり、隠したりするエピソードが積み重なっていくことによって、生、腐敗、死、喪失といった要素が絡み合う独自の世界が切り拓かれる。そして、これから生まれてくるものに対するヤンチェンの意識が変化し、娘の嘘を知ったグルが自分を見つめ直すことになる。

言葉ではなく映像で鮮やかに表現

ソンタルジャ監督が映画作りを通して学んだ最も重要なことは、個人を重視することだったという。彼は、宗教や文化が集団を基盤とするチベットで個人を見つめる。彼の作品にはそんな視点が明確に表れている。

デビュー作の『陽に灼けた道』は、母の死に対して自責の念に駆られる若者が、ラサへの巡礼の旅に出る物語だが、伝統的な巡礼が描かれるわけではない。映画から浮かび上がるのは、ラサからの帰りに、いまだ答を見出せない若者が砂漠を彷徨う姿であり、彼はある老人と出会い、ともに旅することで立ち直っていく。

この『草原の河』でも、父親や娘は孤立する立場へと自身を追いやり、それぞれにひとりでもがきながら壁を乗り越えていく。そこには、チベットの伝統や中国の影響という要素も当然、盛り込まれているが、中心にあるのは個人であり、ソンタルジャは、変化する社会の現実と向き合う個人の声を、言葉ではなく映像で鮮やかに表現している。

《参照記事》
An Interview with Sonthar Gyal | Trace Foundation


『草原の河』
公開:4月29日(土・祝)より岩波ホールにてロードショーほか全国順次公開
(C)GARUDA FILM

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米10月求人件数、1.2万件増 経済の不透明感から

ワールド

スイス政府、米関税引き下げを誤公表 政府ウェブサイ

ビジネス

EXCLUSIVE-ECB、銀行資本要件の簡素化提

ワールド

米雇用統計とCPI、予定通り1月9日・13日発表へ
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 2
    【クイズ】アジアで唯一...「世界の観光都市ランキング」でトップ5に入ったのはどこ?
  • 3
    中国の著名エコノミストが警告、過度の景気刺激が「財政危機」招くおそれ
  • 4
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 5
    「韓国のアマゾン」クーパン、国民の6割相当の大規模情…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    「1匹いたら数千匹近くに...」飲もうとしたコップの…
  • 8
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 9
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 10
    ゼレンスキー機の直後に「軍用ドローン4機」...ダブ…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 5
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 6
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 7
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 8
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 9
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 10
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 9
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story