コラム

対クルド攻撃を優先させるトルコ

2014年10月17日(金)12時43分

 イスラーム国を「殲滅する」と宣言して、シリア空爆を始めたオバマ大統領だが、米国の頭を悩ませているのはイスラーム国だけではない。対イスラーム国で協力を仰ぐべきシリア周辺国が、ちっとも米国の期待通りの行動をとってくれないことだ。

 9月17日、イスラーム国は、トルコとの国境にあるシリアのクルド人の街、コバーニー(アラビア語でアイン・アルアラブ)に対する攻勢を強め、シリアのクルド準軍事組織、YPG(クルド人民防衛隊) と激しい戦闘を展開した。イスラーム教徒スンナ派であるクルド人を「イスラームではない」と異教徒視するイスラーム国を前に、コバーニーのクルド人たちは戦々恐々、救援を求める。彼らが逃げ延びる先は、隣接するトルコしかない。米政府もまた、トルコ政府に対して、イスラーム国退治のためにトルコの軍事基地を使わせろ、との要求を強めた。

 しかし、トルコ政府の反応は、その期待に沿うものでなかった。コバーニーに、トルコからの救援はこない。その判断に対してトルコ国内のクルド人たちは、目の前で同じクルド人がイスラーム国に虐殺されているのに、と神経を逆撫でされ、政府批判を高める。だが反対に、トルコ軍が攻撃したのは、自国のクルド反政府組織、PKK(クルド労働者党)の拠点だった。米政府にしてみれば、自分たちがイスラーム国をやっつけようとしてクルド勢力を支援しているのに、そのクルド人たちを同盟国であるはずのトルコがやっつけているなんて、といったところだろう。

 この事件は、イスラーム国退治のために米政府が構築しようとしている域内共闘関係と、当の周辺国の思惑がまったくずれているということを、露骨に示している。そもそもトルコとサウディアラビアは、対イスラーム国空爆が始まる前から一貫して、シリアの問題はアサド政権だと主張してきた。アサド政権を打倒するために、直接的であれ間接的であれ反アサド諸勢力を支援してきた。2013年秋に、オバマ政権がアサド政権を攻撃すると宣言しながらそれを撤回したことは、両国にとって対米不信の核にある。イスラーム国退治もいいが、それがアサド政権を利することになればお断り、というところだ。

 さらに、トルコにとってはクルド問題がある。トルコの対クルド政策が、湾岸戦争までその民族的アイデンティティすらも認めない厳しいものであったことは、良く知られている。しかし、湾岸戦争でイラクのクルド民族が当時のフセイン政権の弾圧を逃れてトルコ国境で難民化したことや、トルコ政府がEU加盟を目指して「少数民族の権利」に配慮せざるを得なかったことなどから、その対クルド政策は大きく改善された。特にAKP政権になってからは、対クルド融和政策が推進され、長く「テロ集団」視して抗争を続けたPKKとの間にも、過去二年間弱、和解が進められてきた。

 だからといって、PKKとの関係が良好であるとは到底いいがたい。準備もなくイスラーム国と正面衝突するリスクを冒してまで、トルコ軍としてはPKKやYPGのために行動することは考えられない。

 ならば何故、米政府はクルド勢力に肩入れしているのか。米国務省自身、PKKを「テロ組織」と認定しているのだから、その疑問はなおさらだ。その理由は、米軍にとって対イスラーム国退治で頼りになる勢力がクルド勢力、特にPKKやYPGしかいない、ということだ。言い換えれば、イラク国軍や周辺アラブ諸国などは全く頼りにならず、唯一勇猛果敢にイスラーム国と戦っているのがクルド勢力だけだということである。

 イスラーム国がモースルに来たとき、イラク国軍がほうほうの体で逃げ出したことは、以前このコラムでも述べた通りだ。その後イラク政府が信仰心をダシにかき集めた即席部隊は、もっぱらシーア派民兵たちで構成されており、彼らは国土防衛よりシーア派聖地防衛に命を懸けている。政府は、スンナ派部族勢力を取り込んで外来のテロリストと戦わせる、というかつての米軍の手法を再度繰り返そうとしているが、いまだ確たる成果は見えない。

 しかも、同じクルド勢力でも、イラクで半ば独立状態にあるクルディスタン自治政府の軍(ペシャメルガ)がろくに戦力にならなかったことが、米政府にとっては想定外だったに違いない。イラク戦争前、クルド民兵としてフセイン政権下のイラク軍と戦い続け、唯一「解放区」を維持し続けてきたペシャメルガなら、きっとイスラーム国をも撃退してくれるに違いない――。米政府はそう期待したのだろう。だが、イスラーム国はクルディスタン自治政府の首都アルビル近くまで進撃し、ペシャメルガの弱体ぶりが露呈してしまった。

 代わりに活躍したのが、PKKの部隊だった。シンジャールで少数宗派のヤズィード教徒がイスラーム国進撃の危機に晒されたとき、先頭に立って戦ったのが、PKKなのである。 

 PKKはトルコのクルド勢力であり、本来イラクには基盤はない。だが、90年代、イラクのクルディスタン地域が米欧の支援を得て半独立状態を確保すると、PKKはトルコ軍の攻撃を避けて、しばしばイラクのクルディスタンに逃れてきた。トルコ政府との関係を損ねたくないイラク・クルドの中心政党、KDP(クルディスタン民主党)は、当時トルコ軍のPKKに対する越境攻撃を許しただけではなく、KDP自ら、トルコ軍の代理としてPKK潰しを率先して行っていた。

 その頃、イラクのクルディスタンで反政府活動を行っていたクルド人青年にインタビューしたことがある。曰く、PKKは単にトルコからの余所者ではなく、イラクでも若者に人気が出ているのだ、と。何故?と尋ねたところ、「KDPもPUK(クルディスタン愛国同盟)も、大政党の地位にあぐらをかいて、ちっともクルド社会が抱えている問題に向き合っていないからだ」。

 20年近くも前のインタビューだが、実は弱体だったペシャメルガと、イスラーム国相手に唯一豊富な戦闘経験を持って戦っているPKK、という対比は、その頃の状況を彷彿とさせる。頼れる武闘組織がPKKしかないというところに、米のイスラーム国対策のずさんさが表れている。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏「非常に生産的」、合意には至らず プーチ

ワールド

プーチン氏との会談は「10点満点」、トランプ大統領

ワールド

中国が台湾巡り行動するとは考えていない=トランプ米

ワールド

アングル:モザンビークの違法採掘、一攫千金の代償は
MAGAZINE
特集:Newsweek Exclusive 昭和100年
特集:Newsweek Exclusive 昭和100年
2025年8月12日/2025年8月19日号(8/ 5発売)

現代日本に息づく戦争と復興と繁栄の時代を、ニューズウィークはこう伝えた

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 2
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...「就学前後」に気を付けるべきポイント
  • 3
    頭部から「黒い触手のような角」が生えたウサギ、コロラド州で報告相次ぐ...衝撃的な写真の正体
  • 4
    債務者救済かモラルハザードか 韓国50兆ウォン債務…
  • 5
    【クイズ】次のうち、「海軍の規模」で世界トップ5に…
  • 6
    「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(東京会場) …
  • 7
    「笑い声が止まらん...」証明写真でエイリアン化して…
  • 8
    「触ったらどうなるか...」列車をストップさせ、乗客…
  • 9
    【クイズ】次のうち、「軍事力ランキング」で世界ト…
  • 10
    「長女の苦しみ」は大人になってからも...心理学者が…
  • 1
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 2
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...「就学前後」に気を付けるべきポイント
  • 3
    イラン人は原爆資料館で大泣きする...日本人が忘れた「復讐の技術」とは
  • 4
    「笑い声が止まらん...」証明写真でエイリアン化して…
  • 5
    「長女の苦しみ」は大人になってからも...心理学者が…
  • 6
    これぞ「天才の発想」...スーツケース片手に長い階段…
  • 7
    「触ったらどうなるか...」列車をストップさせ、乗客…
  • 8
    「何これ...」歯医者のX線写真で「鼻」に写り込んだ…
  • 9
    産油国イラクで、農家が太陽光発電パネルを続々導入…
  • 10
    輸入医薬品に250%関税――狙いは薬価「引き下げ」と中…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失…
  • 6
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 7
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 8
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 9
    イラン人は原爆資料館で大泣きする...日本人が忘れた…
  • 10
    12歳の娘の「初潮パーティー」を阻止した父親の投稿…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story