コラム

香港の不安

2012年02月10日(金)18時22分

 上海でビジネスを営む、香港人の元同僚から久しぶりに電話があった。

「知ってる? 北京大学の教授がさ、香港人を『犬!』って罵ったって...」

 ああ、それ、あの時は香港人が大騒ぎしてたけど、もうとっくの昔にみんな話題にもしなくなっているよ。だって、あの教授、北朝鮮政府支持者として有名で、もともと中国の知識人の間でも「変なヤツ」で通ってるからね。「あいつがまた素っ頓狂なこと言ってらぁ」ってそんな感じだよ。逆にそういう人も教授になれるってことを知って、香港人の北京大学崇拝も潰えるだろうから、かえってよかったんじゃないの?

「いや、大学教授がどうこうじゃなくて、そういう見識の大陸人がたくさん香港に流れ込むのはやっぱり問題だと思うんだよな。きっかけになったビデオの大陸観光客だって、地下鉄の中で飲食しているのを注意されて反撃してる。ああいう黒を黒と思わない大陸人はぼくも上海でたくさん見てるけど、2003年の自由旅行解禁以来香港にたくさん流れ込んでいて、香港人の神経を逆なでしてるだろ。今回は教授の言葉にそれが爆発したわけよ」

 でもさ、一括りでアンチ大陸人騒ぎにするのはどうかなぁ。わたしにも香港で暮らしている大陸人の友人はたくさんいるけど、彼らは非常に礼儀正しいし、中国国内の問題もきちんと認識してるよ。外見じゃ区別がつかないし、街で袖振り合う香港市民はそんな大陸人もいるって気づいてないんじゃない? 彼らだって目の前で差別的な言葉を吐き続けられれば、キレるし、不快になるでしょ。2月1日に「アップルデイリー」紙に載った「もう我慢ならない!」ってタイトルの「アンチ大陸人」市民広告で「イナゴ」に喩えられたことに、彼らはショックを受け、とても傷ついてるよ。

「ああ、あの香港に出産にやってくる大陸人妊婦に向けた広告ね。香港人にとってはどうしようもないことじゃないかなぁ。だって大陸から押し寄せてくる妊婦のせいで、今は香港人ですら出産用のベッドが予約できないらしいし。だいたい、両親ともに大陸人なのに香港で生まれた子供が香港人になれちゃうなんておかしいよ!」

 でも、香港基本法の24条で規定している「香港永久住民」には「香港特別行政区成立以前及び以後に、香港で生まれた中国公民」ていう項目があるんだよ。だから彼らは子供を香港で生んでその居住権を取らせようと大きなお腹を抱えてやってくる。そうやって生まれた子供が、去年の上半期だけで1万8千ケースだって。年間で取り上げた赤ん坊の6割以上が大陸人両親の子供という病院もあって、香港政府もさすがに病院の検診や出産予約書を持った妊婦だけ香港入りを認めるという規定を作ったけど、それでも手を尽くして香港入りする妊婦は多いみたい。予定日ぎりぎりまで待って、列車で香港入りして駅で産気づき、救急車で運ばれて出産するというケースもあるらしいし...

「でも、全国人民代表大会(全人代)が基本法を『香港に居住権を持たない大陸人両親から生まれた子供にはその権限がない』って解釈したことあったじゃないか。それをきちんと適用すれば問題解決するはずだろ」

 ......おまえ、アホか? 「全人代」って中央政府の議決機関だよ、中央の議決を自分たちに都合がいいからと御旗にして一度前例を作っちゃったら、香港が返還されたときに約束された「一国二制度」は終わるんだよ? それからはなにかあるごとに中央政府が香港の事例に都合のいい解釈をしても拒絶できなくなるんだよ? それで「香港人による自治」が続くと思うの? 実のところ、この「大陸人妊婦問題」においてそこがネックになっていて、中国中央政府の介入を認めたくない民主派は頭を痛めてるわけよ。

「じゃ、香港基本法の規定を香港人が改正すればいいじゃん」

 それも調べた人がいるんだけど、実は香港基本法の改正には香港議会及び香港地区の人民代表議員の間で3分の2以上の賛成が必要で、その後中央の全人代自体に改正の議案を送って審議されることになってる。さらに基本法24条の条項は主権返還前にイギリスと中国政府間で結ばれた「中英共同声明」の中の一文がもとになっていて、条文改正のためにはその「中英共同声明」の改正も必要になる可能性があるらしい。そうなると、イギリスの同意も得なくてはいかず、それだけでものすごい手間と時間がかかるでしょ? 当時、イギリスとしては返還後に中国政府が勝手に香港の法律を変えるのを防ごうとそうしたんだろうけど、それが今明らかに足かせになってるわけ。

「......え、そんなに大変なの? となると、水際で、つまり香港入りする税関で妊婦を拒絶するしかない」

 うん、さっきも言ったけど、出産目的の香港入りの場合、一応妊婦には病院の予約書提出が義務付けられている。でもそうは言ってもその人が確実に妊娠しているかどうか、目視だけでわかんないでしょ? いちいち税関ですべての女性に対して妊娠検査をするわけにもいかないし、物理的に無理。だいたい、妊娠してるから観光旅行に来るな、とは言えない。だから、今のところ結局ザル状態。1週間しか滞在できない自由旅行で香港入りして臨月までじっと隠れている人もいるらしい。

「......なんでそこまでして香港で出産しなけりゃなんないのかね?」

 香港の市民権を取って必ずしも将来香港で暮らすつもりのない人も多いみたいだけど、香港パスポートがあれば外国へ簡単に行ける。そのための前段階になるんでしょ。中国国内の病院のサービスを信用できないという人もいる。あと、一人っ子政策ね。すでにもう子供がいて、第二子、第三子を生みたい人たちが香港で生めば罰金は取られないし、国内で育てるにしても、会社を経営したり、私企業で働いている人ならその養育にかかる金銭的負担も問題ないから、きちんと香港の病院で検診やベッドの予約を取って出産しているらしいよ。彼らはそういう意味で香港で違法なことをしているわけじゃないし、「自由な香港」が中国国内の非人道な「一人っ子政策」抵抗の場になっていることを誇るべきかも...

「だからって、大陸人から生まれた『香港人』が今後また増え続けると、香港社会は破たんしちまう!!」

 そうなんだよねー、全大陸人の保護傘になるほど香港は大きくないしね。そこが難しいところだねぇ。

「でも、いまさら大陸人の香港入りを制限するよう主張したら、大陸政府の反感を買ってその報復措置としてぼくら香港人は上海から追い出されたりするのかなぁ...」

 まさか......実は問題は、香港市民が騒ぐほど大陸政府は今起こっている問題を重視してないことなんだよね。13億を超える人口を抱える中国に慣れた政府指導者からすれば、人口750万の香港なんてちっぽけなわけ。大きな出来事にばかり目を取られ過ぎていて、こういった小さいかもしれないけれどその土地にとっては致命的な打撃をもたらすようなことに彼らは鈍感な気がするんだよね。今回の事件だって、中央政府の関係者は一切触れていないし。

「一人っ子政策があるから、公に認めたくないだけじゃないの?」

 それもあるかもしれないけど、「D&G」事件から「犬」事件、そしてこの妊婦事件、さらには最近また新たな火種になっている、香港と広東省の自家用車相互乗り入れ解禁だって全部無視してる。「相互乗り入れ解禁」については先月も深セン市で暴走した車に突っ込まれて香港人が亡くなっているからね、市民はとても不安になっている。左右の通行方向の違いだけじゃなくて、中国国内でよく見かける、むちゃくちゃな運転のドライバーがそのまま香港に入ってくると香港でも同様のことが起こるんじゃないか、と市民はものすごく恐れている。でも、中央政府はすべて知らんぷり。そして中央政府の態度を見て、香港政府も及び腰。今年は香港でも行政長官の選挙が行われるけど、投票母体は中央政府に任命された人たちだから、候補者たちも中央政府が態度表明しない問題に手を突っ込みたくないらしく、なんにも言わない。つまり、結局は問題は次期行政長官たちや香港政府といった香港内部の民主制度に戻ってくるわけよ。香港市民の気持ちをまったく汲もうとしない政府関係者たちにこのまま不満が高まれば、03年の50万市民デモ以来恒例になった7月1日主権返還記念日の民主デモにはまたものすごい数の市民が参加するんじゃないかな。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

G7外相、イスラエルとイランの対立拡大回避に努力=

ワールド

G7外相、ロシア凍結資産活用へ検討継続 ウクライナ

ビジネス

日銀4月会合、物価見通し引き上げへ 政策金利は据え

ワールド

アラスカでの石油・ガス開発、バイデン政権が制限 地
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 3

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の衝撃...米女優の過激衣装に「冗談でもあり得ない」と怒りの声

  • 4

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負け…

  • 5

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 6

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 9

    「イスラエルに300発撃って戦果はほぼゼロ」をイラン…

  • 10

    日本の護衛艦「かが」空母化は「本来の役割を変える…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 4

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 5

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 8

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 9

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 10

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story