コラム

卵子も精子も使わずに「発生後2週間のヒト胚モデル」作成、構成要素も完全再現...倫理問題クリアで不妊治療に貢献か

2023年09月15日(金)21時35分

この人工ヒト胚は、子宮内で14日間成長した典型的なヒト胚が持つ、すべての構成要素を再現しているといいます。つまり、この日齢で形成されるべき胎盤や卵黄嚢といった構造物が、サイズや形状も適切に、正しい位置に形成されたそうです。さらに、妊娠検査の判断基準となるホルモン(ヒト絨毛性ゴナドトロピン、hCG)を作る細胞も存在し、実際に妊娠検査キットで陽性反応となるのに十分な量のhCGを分泌していました。

また、本研究では、発生から10日後に当たる段階で胚が正しく胎盤形成細胞に包まれていないと、卵黄嚢などの内部構造は適切に発達しないことも示唆されました。ハンナ教授は英ガーディアン紙の取材を受け、「妊娠の失敗の多くは、大半の女性が妊娠に気づかない発生初期に起こっています。多くの先天性欠損症はこの時期の胚で起きていることも知られていますが、発見はずっと後になる傾向があります。私たちのモデル(人工ヒト胚)は、発生初期での適切な発達に必要な生化学的、機械的シグナルと、発達がうまくいかない原因を明らかにするために使用できるでしょう」と話しています。

妊婦や胎児のほか一般患者への応用も視野に

人工ヒト胚は、倫理問題をクリアしながら体の器官の初期形成を観察したり、遺伝性疾患や発達異常に起因する妊娠の不継続について知見を集めたりすることに役立つと期待されます。ただし、作成の失敗率が99%である現在、初期流産の防止や体外受精の成功率アップにつなげるには、しばらく時間がかかりそうです。

そのうえ、人工ヒト胚の作成成功率が上がったとしても、実験室で培養しているため、胚が子宮内膜に着床するステップは再現できていません。人工ヒト胚を使えば、妊娠不継続の原因のすべてが解明できるということにはならないでしょう。

一方、胚の薬物に対する反応という面では大いに期待できます。医薬品の臨床試験では、妊婦はほとんどの場合除外されます。一般的な医薬品でも、胎児や母親が妊娠中に摂取した乳児への影響は、大半が作用機序(薬が効果を及ぼす仕組み)から勘案されています。人工ヒト胚を使えば、直接的に薬物の副作用を評価できるかもしれません。

さらにハンナ教授は、人工ヒト胚の研究成果を、妊婦や胎児だけでなく一般患者にも応用することも視野に入れています。たとえば、患者の皮膚細胞を処理して多能性幹細胞を作り、さらに人工ヒト胚を作成して1カ月ほど育てれば、患者に移植したい臓器の細胞のもととなる器官が発達するだろうと言うのです。人工ヒト胚をドナーとして自家移植すれば、拒絶反応などのリスクが少ない移植が期待されます。もっとも、ハンナ教授は「ただし科学者たちは、人工ヒト胚を生育させる前に、脳や神経系が発達しないように遺伝子に手を加えて微調整するだろう」と注釈を加えています。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ユーロ高とインフレを楽観視、関税は経済を圧迫へ=E

ワールド

タイ商務相、対米関税交渉に自信 税率10%に引き下

ワールド

イスラエル商都などにミサイル、8人死亡 イラン「新

ビジネス

午後3時のドルは144円前半、中東情勢にらみ底堅い
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 7
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 9
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story