大酒のみで癇癪持ち、体罰も当たり前...中国トップの習近平の父・習仲勲の苛烈極まる教育法とは
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倹約が徹底されていた
習仲勲は1953年に北京にやって来たとき、最初の妻との間に娘2人と息子1人がいて、2人目の妻、斉心(チー・シン)との間にも橋橋(チアオチアオ)と安安(アンアン)という2人の娘がいた。そして53年に近平、56年には遠平(ユアンピン)という2人の息子が生まれた。
橋橋と安安、近平と遠平は、平日は学校の寄宿舎で生活していた。4人が学んだ「北京市八一学校」では、在学生のほとんどが軍高官の子供だった。ある卒業生の表現を借りれば、「物腰の優しさや繊細さがことのほか嫌悪される」環境だったという。
この中学校の教育では、階級闘争を前面に押し出し、どこに敵が潜んでいても不思議でない、誰が敵だったとしてもおかしくない、そうした敵には容赦なく接するべきだと教えていた。政治教育の授業では、『革命の継承者であれ』といった本を学んだ。習近平によれば、この本は「私たちの世代の理想主義的思想と人生の選択に大きな影響を及ぼした」とのことである。
卒業生たちは、八一学校の教育のおかげで強い精神を育むことができ、その後に訪れた文化大革命の暗い日々に希望を失わずに済んだと語っている。
2003年のあるインタビューで、聞き手が習近平に、子供時代には特権階級として恵まれた生活をしていたのかと単刀直入に尋ねたことがあった。