最新記事
アカデミー賞

アカデミー賞監督の「英語スピーチ格差」を考える

The Director’s Speech

2024年4月25日(木)18時48分
北島 純(映画評論家、社会構想大学院大学教授)

英語スピーチの難しさ

音楽家の坂本龍一は1988年に映画『ラスト・エンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ監督)で日本人初となるアカデミー作曲賞を受賞した時、「マエストロ(巨匠)ベルトルッチ、プロデューサーのジェレミー・トーマス、全ての友人、スタッフとアシスタントに感謝したい。本当にありがとうございました」と英語で簡潔明瞭に述べ、クールで完璧なイメージを世界に印象付けた。その際の共同受賞者の蘇聡(スー・ツォン)は母語である北京語でスピーチを行い、直後にもう1人の共同受賞者であるデビッド・バーンが英語に通訳した。

今回の山崎監督も、英語であれば坂本のように短い謝辞に徹するか、濃い内容を語る場合は母語である日本語で一気呵成に話し、他の登壇者が即席の通訳として英語に要約する蘇聡的スタイルでもよかったかもしれない。

今年のアカデミー賞授賞式は、『オッペンハイマー』で念願のオスカー(助演男優賞)を獲得したロバート・ダウニーJr.が、プレゼンターで中国系ベトナム移民のキー・ホイ・クァンを無視したかのような振る舞いが「人種差別」として問題視された。主演女優賞のエマ・ストーンも同じ批判にさらされた。

アカデミー賞は映画産業の頂点に君臨する世界的イベントである。受賞者の誰しもが興奮に包まれ、われを忘れる者もいる。そうした舞台で受賞者がメッセージを明確に伝えるスピーチをするのは容易ではなく、まして外国語として英語を用いるのであればその難しさはなおさらだ。

歴史に残る名スピーチの、鋭い言葉と真摯な姿勢

しかし今回、それをやり遂げた監督がいる。長編ドキュメンタリー賞を受賞した映画『マリウポリの20日間』(4月26日から日本公開)の監督ミスティスラフ・チェルノフだ。

チェルノフはAP通信のウクライナ人記者として22年2月、ウクライナ東部マリウポリにおけるロシア侵攻の渦中にいた。マリウポリ市内は容赦ない攻撃を受け壊滅状態になる。幼いわが子を殺された父親の慟哭。絶望の漂う地下室で音楽を奏で勇気を振り絞る市民。カメラを回し続けその姿を克明に記録したチェルノフは通信が遮断されたマリウポリから脱出、実態を報じるドキュメンタリーを作り世界に衝撃を与えた。チェルノフはオスカーを握り締めてこうスピーチした。

「ウクライナ史上初めてのオスカーを光栄に思う。しかし私はこの舞台で『この映画は作られなければよかった』と言う最初の監督になるだろう。映画の製作を、ロシアによるウクライナ攻撃や占領がない姿と交換できたら、と思う。ウクライナ市民が殺されることもなく、捕虜や兵士、市民が解放されればどんなにいいことか。しかし私には、歴史と過去を変えることはできない。それでも私たちは、全員で力を合わせれば、歴史を正しく記録し、真実が打ち勝ち(prevail)、マリウポリの市民と犠牲者が決して忘れられないようにすることはできる。なぜなら映画は記憶を形成し、記憶は歴史を形成するからだ。皆さんとウクライナに感謝する。スラーヴァ・ウクライニ(ウクライナに栄光あれ)」

米文学の巨匠ウィリアム・フォークナーは1950年にノーベル文学賞を受賞した際のスピーチで「私は、人間はただ耐えるだけではなく、打ち勝つ(prevail)と信じている」と述べ、魂の不朽と人間存在の不滅を訴えた。それに匹敵する名スピーチというほかない。

チェルノフ監督のスピーチに会場は静まり返った。鋭い言葉と真摯な姿勢に人々は聞き入ったのだ。そうした力を持つスピーチを日本人監督がアカデミー賞の舞台で行う日は、いつ来るだろうか。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米ADP民間雇用、8月は5.4万人増 予想下回る

ビジネス

米の雇用主提供医療保険料、来年6─7%上昇か=マー

ワールド

ウクライナ支援の有志国会合開催、安全の保証を協議

ワールド

中朝首脳が会談、戦略的な意思疎通を強化
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 2
    【動画あり】9月初旬に複数の小惑星が地球に接近...地球への衝突確率は? 監視と対策は十分か?
  • 3
    「見せびらかし...」ベッカム長男夫妻、家族とのヨットバカンスに不参加も「価格5倍」の豪華ヨットで2日後同じ寄港地に
  • 4
    「よく眠る人が長生き」は本当なのか?...「睡眠障害…
  • 5
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 6
    Z世代の幸福度は、実はとても低い...国際研究が彼ら…
  • 7
    【クイズ】世界で2番目に「農産物の輸出額」が多い「…
  • 8
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 9
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動…
  • 10
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 1
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 2
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 3
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 4
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 5
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 6
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
  • 7
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 8
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 9
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 10
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 1
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大ベビー」の姿にSNS震撼「ほぼ幼児では?」
  • 4
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 5
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 6
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 7
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 8
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 9
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中