コラム

松井秀喜氏はどうしてヤンキースタジアムを総立ちにさせたのか?

2013年07月30日(火)13時14分

 考えてみれば不思議です。日本でのキャリアはともかく、アメリカではヤンキース一筋というわけではありませんでした。ヤンキースの後、エンゼルス、アスレチックス、レイズと複数の球団を渡り歩いて引退したのであって、松井氏は引退の時点ではヤンキースのメンバーではなかったのです。

 にもかかわらず、7月28日の日曜日、ニューヨーク・ヤンキースは松井氏と「ワンデイ・コントラクト」つまり一日だけの契約を交わすと共に、ヤンキースタジアムに登場して「引退セレモニー」を行いました。球団は、この日のことを相当に前に決定していたようで、「7月28日に球場に行くと、ヒデキ・マツイの首振り人形がもらえる」というキャンペーンについては、シーズンの相当初期に発表していたのです。

 ヤンキースの独占中継局であるYESネットワークによれば、合同記者会見の席上で、ブライアン・キャッシュマンGM(ゼネラルマネジャー)が挨拶をしたのと同時に、2002年のシーズンオフに松井氏を獲得した際の中心人物であったジーン・アフターマンGM補佐が登場して「この日のワンデイ・コントラクト」の契約書を実際に見せながら、松井氏の貢献と、彼が引退することへの感慨を語っていたのが印象的でした。

 そこで1つの疑問が湧いてきます。

 ヤンキースと、ヤンキースのファンは、そこまで松井氏を愛していながらどうして2009年のシーズンオフ、あのワールド・シリーズMVPの大活躍をした直後に、松井氏を放出し、またファンもそれを認めたのでしょうか? そして、一旦放出しておきながら、今回の「ワンデイ・コントラクト」によって、ヤンキースの一員としての引退式を行って、涙ながらに彼のことを顕彰したのでしょうか?

 1つには、アメリカの場合は終身雇用が崩れているということがあります。契約の関係で複数の企業を渡り歩く、そしてその切れ目では解雇という現実を受け入れたり、それに伴う別れがあったりするというのは、アメリカでは当たり前です。2009年の松井氏の「エンゼルスへの放出」というのも、チームの若返り構想や、総人件費の抑制という中で、企業として合理的な判断であれば、本人も周囲も、そして人気商売であるプロ野球としてのファンも、納得するのが当然だということがあります。

 その一方で、終身雇用に近い存在も残っています。ヤンキースであれば、ジーター選手やリベラ投手というのは「生涯ピンストライプ」という特別なステータスを、本人も周囲も認めた存在です。ですが、こうした「生涯ピンストライプ」の選手と、「最後は3球団を渡り歩いた」松井氏について、ファンの思い、愛情というのは質的に変わらないのです。

 つまり、他チームに行ったから「汚れた」とか「純粋なヤンキーではない」という感覚はそもそもないのです。例えば、松井氏と親交のある往年の主軸打者であるレジー・ジャクソン氏の「背番号44」はヤンキース、エンゼルス、アスレチックス(奇しくも松井氏のプレーした球団と重なります)の3球団で「永久欠番」になっているのです。

 この感覚からすると、日本球界の不世出の大投手である金田正一氏の「34番」がジャイアンツでは永久欠番になっている一方で、長く貢献したスワローズでは欠番になっていないというのには私は違和感がありますが、要するに「生え抜きで生涯一球団でないと裏切り者」というカルチャーはアメリカには皆無なのです。

 これに加えて、ビジネスの判断としての解雇ということと、人間の自然な感情としての賞賛とか愛情というものが「明確に区別されている」というカルチャーがあります。戦力構想ということで、アッサリと解雇しておきながら、そしてファンもそれを追認しておきながら、引退式ではエモーショナルな感動で盛り上がることができる、これは一見すると矛盾であり、何となく「タテマエの世界のキレイごと」のように見えます。

 ですが、違うのです。個人へのリスペクトはあっても、戦力構想のために解雇することがあるし、それでも個人へのリスペクトは残る、それが「契約社会」だということです。この感覚が分からないと、このセレモニーの感動は素直に味わえないでしょうし、このセレモニーの感動を素直に感じることができれば、この価値観が分かったということだと思います。

 ちなみに、現在日本で進行している「追い出し部屋」というのは、雇用を脅しながら個人への自他によるリスペクトも壊してゆくという全く非人道的なものです。また、その延長に議論されている「雇用の流動化」とか「解雇の自由化」というものも、もしも個人へのリスペクトを伴わないのであれば、単なる「古代の野蛮なカルチャーへの退行」に過ぎないわけです。

 それはともかく、松井氏は噂によればアメリカで大学や大学院での勉強、あるいは研究ということを今後の人生のテーマにしていく可能性があるそうです。一部には、氏の人気を当て込んで球団指導者にという声もあるようですが、ここまで日米の球界に気を使って丁寧に生きてきた松井氏ですから、以降は本当にご自身のテーマをゆっくりと追求していったら良いと思います。

 仮に野球指導者になるのであれば、カネの飛び交う人気球団ではなく、アメリカのAAあたりの草の根マイナー球団で、人生の岐路に悩む若者の相手をしながら、日米の長所を取り入れた松井氏の野球理論と、きめ細かい指導技術を磨いていくのがいいのではないでしょうか? 松井氏にはそうした日々の方がおそらくは幸福なのだと思います。そのような生き方こそ松井氏らしいし、その「松井らしさ」をゆっくりと磨く中で、例えば将来にもう一度檜舞台で大きな仕事をという可能性も見えてくるのではないかと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)、『アメリカモデルの終焉』(東洋経済新報社)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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