コラム

黒田日銀が物価目標達成を延期した真の理由

2016年11月25日(金)18時10分

実際には3%よりもさらに低かった日本の完全雇用失業率

 今となっては明らかであるが、これらの推定は結局、まったくの誤りであった。というのは、2016年末現在、日本の失業率は既に3%を下回りそうな水準まで低下したにもかかわらず、賃金と物価は十分上昇するまでには至っていないからである。それは端的に、黒田日銀を含む多くのエコノミストの想定とは異なり、「日本の完全雇用失業率は、実際には3%台半ばどころか、3%よりもさらに低かった」という事実を示している。

 仮に、もし日本の完全雇用失業率が日銀その他の推計の通りに3%台半ばであったとすれば、日本経済は失業率が恒常的に3.5%を下回るようになった2015年には、その「完全雇用」に十分に到達していたことになる。そして、賃金と物価は順調に上昇し、黒田日銀の「2年でインフレ率2%」という目標が余裕を持って達成されていたはずである。しかし現実には、失業率が3%台前半であった2015年中に、2%のインフレ目標が達成されることはなかった。それは単に、実際の完全雇用失業率が、それよりもはるかに低かったからである。

 筆者もそう考えていた一人であったが、日銀が想定する完全雇用失業率は高すぎるのではないかという疑念や批判は、黒田日銀の成立以前から数多く存在していた。11月4日付け拙稿で示したように、日本の過去のフィリップスカーブから推測されるNAIRUは、せいぜい2%台半ばであった。結局は、高級な手法を用いた計量的推計よりも、そのような過去のデータからの目の子算的な推測の方が、より正しかったということになる。

 とはいえ、黒田日銀をその点だけに基づいて批判するのは酷であろう。そもそも、バブル崩壊後の日本経済は、20年以上にわたる恒常的な需要不足状態であり、完全雇用に達したことは一度もなかった。その間の日本経済は、インフレの加速どころか、プラスのインフレ率すら稀だったのだから、明らかに需要不足が恒常化していたのである。そして、需要不足失業もそれだけ長く続くと、それが慢性化して構造的失業に転じている可能性は確かにあった。その場合には、フィリップスカーブは右にシフトし、NAIRUは必ず上昇する。そう考えると、その程度はともかくとして、日本の完全雇用失業率がバブル期以前の「2%台半ば」よりは上昇していると考えたとしても、それほど不自然ではなかったのである。

 しかしながら、まことに幸いなことに、日本経済の完全雇用失業率は、この20年以上にわたる需要不足失業の恒常化にもかかわらず、実際にはそれほど上昇してはいなかった。「失業率が3%を切ろうとしても、賃金と物価の上昇率は未だに低く保たれている」というのが、その証拠である。そのことは、期限の約束を守ることができなかった日銀にとっては、確かに問題である。しかし、それは日本経済にとっては、「失業を減らして雇用と所得を拡大させる余地が事前の想定以上に残されていることが明らかになった」という、よい意味で想定外の事態だったのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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