コラム

黒澤明の傑作映画『生きる』のテーマは「生」でなく「組織と個」

2023年02月17日(金)18時45分
生きる

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<役所勤めとは何もしないこと。命令や指示に従うこと。こうして組織はとてつもない失敗を犯す。ナチスもそうだった。アイヒマンや渡辺課長は僕でありあなたでもある>

昨年から今年にかけて、僕にとって大切な先輩たちの逝去が相次いだ。ほとんどは70代後半。なぜ皆、これほど天命に律儀なのか。命とは何か。死ぬとはどういうことか。そんなことを思いながら、20代の時に観た『生きる』を再見した。

ただしこの映画は、死と生を正面から扱った作品ではない。ブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさむ渡辺課長(志村喬)のシーンがあまりに強烈なのでそう思われがちだが(僕も記憶を再編集していた)、メインのテーマは組織と個の相克だ。

ポーランドにあるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に行ったとき、所長だったルドルフ・ヘスが居住していた家に案内された。ドイツから妻と5人の子供たちを呼び寄せたヘスは、鉄条網の外に小さな家を建てて家庭菜園も作り、一家仲良く暮らしていた。

もちろん家はもう解体されている。でも敷地は残っていた。ふと目を上げて僕は衝撃を受けた。ユダヤ人の遺体を焼いていた焼却所までは、歩いて数分の距離だ。仲むつまじく暮らす一家の目に、煙突から立ち上る黒い煙はどのように映ったのだろう。

処刑前に「私は巨大な虐殺機械の歯車にされてしまった」と述べたヘスと同じくナチス親衛隊員で、ユダヤ人移送の最高責任者だったアドルフ・アイヒマンは、戦後に名前を変えて潜伏していたアルゼンチンでイスラエルの諜報機関モサドに拘束され、裁判にかけられた。モサドはアイヒマンを以前から監視していた。でもこの痩せた貧相な男が、残虐なホロコーストのキーパーソンだという確証がどうしてもつかめなかった。

ならばなぜ工作員たちは、彼がアイヒマンであるとの確証を持って拘束できたのか。その日はアイヒマン夫妻の結婚記念日で、仕事帰りにアイヒマンが花屋に寄ったからだ。妻に花をプレゼントするために。

エルサレムの法廷に被告として現れたアイヒマンは、ホロコーストに加担した理由を何度聞かれても「命令されたから」としか答えることができず、外見も含めて役所の中間管理職のイメージそのままだった。

この法廷を傍聴したハンナ・アーレントは「凡庸な悪」という言葉を想起し、その著書『エルサレムのアイヒマン』において「アイヒマンの罪は多くの人を殺したことではなく、思考を停止してナチスという組織の歯車になったことだ」と書いた。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

北朝鮮の金与正氏、日米韓の軍事訓練けん制 対抗措置

ワールド

ネパール、暫定首相にカルキ元最高裁長官 来年3月総

ワールド

ルイジアナ州に州兵1000人派遣か、国防総省が計画

ワールド

中国軍、南シナ海巡りフィリピンけん制 日米比が合同
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人に共通する特徴とは?
  • 2
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェイン・ジョンソンの、あまりの「激やせぶり」にネット騒然
  • 3
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 4
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 5
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 6
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で最も「火山が多い国」はどこ?
  • 9
    村上春樹は「どの作品」から読むのが正解? 最初の1…
  • 10
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 10
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 6
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 7
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story