コラム

サウディアラビアの宗派間緊張に火がつくか

2015年06月03日(水)12時25分

「イスラーム国」(IS)の脅威が、本丸に迫っている。

 5月22日、サウディアラビア東部のシーア派人口の多いカディーフ市で、シーア派モスクが自爆攻撃によって攻撃され、21人が死亡した。それから一週間後の29日には、同じくシーア派人口の多いダンマン (ダンマーム)市でモスクが攻撃され、4人が死亡した。ダンマンはサウディ最大の油田地帯の中心都市にあたり、同国第二の港として日本の石油業界関係者にもなじみの深い街だ。

 この攻撃を実施したのはISだ、と犯行声明が出されている。イラクとシリアを舞台とするだけでなく、サウディの油田地帯を燃え上がらせるようなことになれば、その影響はこれまでの比ではない。ペルシア湾岸の「有事」が絵空事ではない、前代未聞の大混乱が生まれる。

 ただ、ISが本丸に迫った、というのは、油田地帯に来たから、というのではない。ISのみならず現代のさまざまなイスラーム武闘派が出現する遠因を、多かれ少なかれ抱えているサウディアラビア。「イスラームの聖地の守護者」を自認するサウード王家が君臨するからこその、サウディアラビア。その王政がこれまで保ってきた危うい宗派間のバランスを、ISが直撃したからだ。

 サウディアラビアが東部油田地帯に多くのシーア派人口を抱えてきたことは、王国のアキレス腱として長く懸念材料とされてきた。王国が掲げるワッハーブ派は、長くシーア派を「異端」とみなしてきた。だが、実際の政策では、シーア派社会を完全否定するわけにも、徹底弾圧するわけにもいかない。きわめて限定的ではあるが、王政はそれなりのシーア派の「権利」を認めてきた。東部シーア派社会ではワッハーブ派に基づいた司法が適用されるのではなく、一部シーア派の裁判権が認められている。またイラク戦争後、サウディでは、「中東を民主化する」という当時のブッシュ米政権の旗振りに呼応してか、地方評議会が設置され、選挙が導入されたが、東部のカティーフ州とハサ州ではシーア派議員が州評議会に選ばれた。シーア派の代表的な儀礼、アーシューラーも、制約の下とはいえ、一応行われるようになっていた。そして、そうした王国の政策に、地元シーア派社会もそれなりに適応してきたのである。

 だが、王政の根っこには、「シーア派社会がイランに同調してサウディの安全保障を脅かしたら、どうしよう」という、トラウマともいうべき危惧がある。イラン革命しかり、バハレーンでの反政府暴動しかり、そして最近ではイエメンでのホーシー派による政権奪取しかり。サウディアラビアにとっては、これらが全部、「シーア派=イランの陰謀」に見える。

 サウディアラビアのシーア派は、そんなにイランとつながっているのか、という疑問に対して、最近のペルシア湾岸諸国研究は、「ノー」と言う。興味深いことに、近年立て続けに、ペルシア湾岸諸国のシーア派や宗派対立についての研究書(英語)が出版されているが、いずれも、イランに直接影響を受けたのはイラン革命(1979年)の直後の数年だけ、と指摘する。90年代はイランとサウディアラビアの関係が改善したり、湾岸諸国で影響力を誇った「シーラージ派」と呼ばれるイラク系シーア派組織が、それまで庇護を受けていたイランやイラクで急速に力を失ったりして、湾岸各国のシーア派社会はむしろ、地元政府とうまくやっていくことに力点を置いてきた。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米関税で見通し引き下げ、基調物価の2%到達も後ずれ

ワールド

パレスチナ支持の学生、米地裁判事が保釈命令 「赤狩

ワールド

イラン、欧州3カ国と2日にローマで会談へ 米との核

ワールド

豪総選挙、与党が政権維持の公算 トランプ政策に懸念
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 2
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    中居正広事件は「ポジティブ」な空気が生んだ...誰も…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 10
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story