コラム

エジプト:劇場型裁判の行方

2011年08月05日(金)23時17分

 3日、エジプトでムバーラク前大統領の初公判が行われた。法廷の中心に設けられた檻のなかでベッドに寝ているムバーラクに、厳しい口調で判事が糾弾する。眼は落ち込み皺だらけの顔は、これが前大統領かと思うと、実に情けない姿だ。

 ムバーラクと旧政権の幹部に対する公判は、「1月25日革命」の今後の方向性を決める上で、重要なステップだ。前政権の何が罪とされ、新政権は何をすべきではないとされるのか、新政権の方針を示す場となる。

 同時に、裁判は悪者相手に正義を演出する、国民監視の劇場でもある。
 
「革命」後もエジプトの新政権が順調とは言いがたいし、期待したような政治改革にも社会経済面も、眼に見える成果はない。軍事政権の旧体制性は明らかで、新政権下でも民衆と治安部隊の間で衝突が起きている。下手をすると現政権に国民の批判が集中しがちな状況で、旧政権の「悪者」たちをスケープゴートにし、彼らの過去の悪行を改めて露呈させることは、新政権への批判を回避するための格好の材料だ。
 
 それにしても、公判でのムバーラクの情けない姿は国民にどういうイメージを与えるのだろうか。旧体制の独裁者に対する捜査、公判が政治化し、見る者に明確な政治的メッセージとなって伝わったケースに、イラクのサッダーム・フセインの処刑がある。

 イラク戦争の8ヶ月後に米軍に捉えられたフセイン元大統領は、ボサボサの髪、髭の姿で米兵に口を開けさせられ、まさに「落ちた英雄」のイメージが演出された。だが公判の段になって痩せた洋装で現れると、逆に精悍な出で立ちで眼光鋭く裁判官を圧する姿が印象的だった。2006年末に処刑された際には、フセインは「過去にイスラーム主義を弾圧して何が悪い」とばかりに決然と処刑台に立って、報復の喜びを露骨に現した現政権のイスラーム主義者たちと対照的だった。

 エジプトのムバーラクの情けない姿は、前大統領の威厳を損ねようとする糾弾側の戦略なのだろうか、それとも本人が同情を買うためなのか。すでに「ロバ」だの「ウシ」だの、在任中から揶揄されていたムバーラクの情けなさを強調しても、あまり効果はないような気がする。そもそも民衆のムバーラクへの反感は、フセインとイスラーム主義者のように主義信条でぶつかって生まれたものではない。

 エジプトで1952年に国王が追放されたとき、エジプト人はその出立を手を振って見送った、とよく言われる。その六年後にイラクの革命で国王一族が射殺されたこと、特に首相の墓が民衆の手で暴かれて遺体が八つ裂きにされたエピソードと比較して、エジプト人はそのことを「政敵にも寛容なエジプト人」を証明する出来事として、自慢したものだ。

 果たして今回の裁判は、どう演出するのがエジプト人の国民感情に訴えるのか。楽しいデモを演出して革命を成功させた若者たちは、今いろいろと頭を悩ませているに違いない。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米雇用コスト、第3四半期は前期比0.8%上昇 予想

ワールド

ノーベル平和賞マチャド氏、授賞式間に合わず 「自由

ワールド

ベネズエラ沖の麻薬船攻撃、米国民の約半数が反対=世

ワールド

韓国大統領、宗教団体と政治家の関係巡り調査指示
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア空軍の専門家。NATO軍のプロフェッショナルな対応と大違い
  • 2
    トランプの面目丸つぶれ...タイ・カンボジアで戦線拡大、そもそもの「停戦合意」の効果にも疑問符
  • 3
    死者は900人超、被災者は数百万人...アジア各地を襲う「最強クラス」サイクロン、被害の実態とは?
  • 4
    【クイズ】アジアで唯一...「世界の観光都市ランキン…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    「何これ」「気持ち悪い」ソファの下で繁殖する「謎…
  • 7
    「正直すぎる」「私もそうだった...」初めて牡蠣を食…
  • 8
    イギリスは「監視」、日本は「記録」...防犯カメラの…
  • 9
    「安全装置は全て破壊されていた...」監視役を失った…
  • 10
    「韓国のアマゾン」クーパン、国民の6割相当の大規模情…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 5
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 6
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 7
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 8
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 9
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い…
  • 10
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 9
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story