最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(フィリピン編3)

昭和30年代のようなマニラのスラムの路地

2017年2月16日(木)15時30分
いとうせいこう

その広めの家にジュニーやジェームスがにこやかに入った。狭い廊下の先の方で明るい挨拶が交わされていた。

皆にしたがって俺も2階に上がった。10畳ほどの会議室があって、大きなテーブルが置かれ、まわりに椅子が点々とあった。

量の多い髪をした浅黒い顔の中年女性が、目を細めて各自に声をかけていた。彼女がリカーン側のプロジェクト・コーディネーター、その名もホープだった。黒い袖なしのワンピースにやはり袖なしの丈の長いジャケットをはおった彼女、ホープ・バシアオ-アベッラは実に元気な人で、挨拶をするジェームスの腹に自分の身体をぶつけるようにして歓待の意を示した。笑う彼女のがらがら声はひときわ大きかった。ホープが笑うと、無口だと思っていたジェームスもよく笑った。

0215ito3.jpg

ジュニーがリカーンのスタッフと笑いあい、エイズの啓蒙を進める

外からバイクの音と子供の声が響く中、それからはしばしホープの説明が続いた。使われてすっかりくたびれた緑色のノートを彼女は出すと、急に知的な目になって白髪混じりの髪をかき上げながら現状を俺たちに訴えたのだ。

プロジェクトの責任者であり、元来活動家であるホープにとって、ファミリープランニングの遅々たる進み方は決して満足出来ないものだった。おまけに5年に1度ずつ更新される医薬品の使用許可のうち、避妊薬に関して最高裁はまだ結論を出していないとのことだった。それまで使っていた避妊薬が不使用になったらどうすればいいというのか。

ホープはさらに助手の若い女性が持ってきた白い布を壁にかけ、そこに幾つかの英語のスライドを映して彼らリカーンの活動を教えてくれた。あまりに熱量のあるホープの説明は、避妊用インプラントの値段からそれまでのフィリピンでの使用率データ、生命は受精からが個体なのかどうかの議論、薬事法の変遷と多岐に及んだ。

やがて頭の中がしっちゃかめっちゃかになってきて、俺は子供の頃の夏休みに親戚のおばさんの難しい話を聞いている気分になった。それでも明確にわかることがひとつだけあった。

目の前のホープおばさんは、既定の方針を一方的に話したいのではなかった。彼女は様々な問題を俺と共有し、その上で議論をしたい様子なのだ。日本から来た俺、フィリピン女性であるロセル、そしてケニア出身のジェームスから意見を聞こうと考えているのである。活動家としてよく鍛えられた人間の姿がそこにはあった。

そして彼女はますますがらがら声で笑った。誰かが意見を言うと自分の主張をし、笑うのだった。この国の活動家は陽気でないとやっていけないのかもしれない。

ブリーフィングの終わりに彼女がこう言ったのを思い出す。


「子供を持つかどうか。それを教会、政治、法律、隣人が決めてしまうのが私たちの国なのよ」

この言葉のあとに彼女は笑わなかった。

少し皆に沈黙があった。

ホープは顔を上げてにっこり目を細めた。


「みんな何食べる?」

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米新規失業保険申請、20万8000件と横ばい 4月

ビジネス

米貿易赤字、3月は0.1%減の694億ドル 輸出入

ワールド

ウクライナ戦争すぐに終結の公算小さい=米国家情報長

ワールド

ロシア、北朝鮮に石油精製品を輸出 制裁違反の規模か
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国の研究チームが開発した「第3のダイヤモンド合成法」の意義とは?

  • 2

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロシア空軍基地の被害規模

  • 3

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 4

    「500万ドルの最新鋭レーダー」を爆破...劇的瞬間を…

  • 5

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 6

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 7

    「複雑で自由で多様」...日本アニメがこれからも世界…

  • 8

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 9

    中国のコモディティ爆買い続く、 最終兵器「人民元切…

  • 10

    「みっともない!」 中東を訪問したプーチンとドイツ…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 6

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ…

  • 7

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 8

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 9

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 10

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中