コラム

老人ホームに潜入調査、人生模様浮かび上がるドキュメンタリー『83歳のやさしいスパイ』

2021年07月07日(水)12時00分

アルベルディは、この物語がセルヒオの当初の目的とは違う方向に展開することを想定して、彼と入所者たちの間に起こる化学変化に注目していたのだろう。もちろん、その方向が彼女の問題意識と結びつくとは限らないが、結果は期待をはるかに超えていたに違いない。

ターゲットの周辺を嗅ぎまわるセルヒオは、入所者たちが、家族から見放されて、孤独や不安に苛まれていることに気づく。心優しい彼は、事あるごとに彼女たちの相談相手になり、ホームの記念日を祝うパーティでは、キングに選ばれ一躍人気者になる。

しかも、ただ優しいだけでなく、スパイの殻を破り、交流を深め、明らかに変化していく。たとえば、詩心のあるペティタと最初に話したときには、彼女の詩よりもホーム内での盗難という情報に気を取られているが、後半では詩が話題の中心になり、彼女が口ずさむ詩の素晴らしさに心を動かされている。また、記憶を失いつつあるルビラには、思い切った行動に出るが、そこに話を進める前に、本作全体の構成を振り返っておくべきだろう。

入所者たちの間に芽生える絆

先述したようにこの物語は探偵事務所の場面から始まる。アルベルディはこの冒頭場面で、壁に映る影を強調したり、ブラインドの隙間からロムロとセルヒオを覗き込むようなショットを盛り込むことによって、ジャンル映画のような雰囲気を醸し出している。そこだけを見るとドキュメンタリーにしては作り込み過ぎているような印象も受けるが、舞台が老人ホームに移るとその狙いがわかる。

セルヒオも最初はやる気満々で捜査にあたり、ロムロに結果を報告しているが、次第にその行動が滑稽に見えてくる。セルヒオが、ホームの記念日にキングに選ばれたことを詳細に伝える場面では、ロムロが苛立ちを隠すことができない。ロムロから暗号を使うように指示され、最初は人目につかない場所で報告をしているが、終盤では隣に入所者たちがいても気にすることなく会話をしている。

そして、記憶を失いつつあるルビラに対してとる行動が、仕事ではないにもかかわらず、セルヒオの立場でなければできない立派な仕事のように思えてくる。彼は最初、孤独と不安に苛まれる彼女に、家族が面会に来た記憶を無くしただけだと言って慰める。しかしその後、受付で面会者の記録を調べた彼は、実際に誰も面会に来ていないことを知る。そこでロムロに彼女の家族の写真を入手するように頼む。探偵事務所が役に立ったのは、そのリクエストに応えたことだけだろう。

アルベルディは、家族でなければ解決できない問題で探偵事務所に頼るような風潮を巧みに風刺し、家族ではないセルヒオと入所者たちの間に芽生える絆を実に生き生きと描き出している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

東芝、26年度営業利益率10%へ 最大4000人の

ワールド

中ロ首脳会談、包括的戦略パートナーシップ深化の共同

ビジネス

ホンダ、電動化とソフトに10兆円投資 30年までに

ワールド

ロシア軍、ウクライナの全方面で前進している=ショイ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史も「韻」を踏む

  • 3

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダブルの「大合唱」

  • 4

    羽田空港衝突事故で「日航の奇跡」を可能にした、奇…

  • 5

    マーク・ザッカーバーグ氏インタビュー「なぜAIを無…

  • 6

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 7

    それでもインドは中国に勝てない...国内企業の投資意…

  • 8

    総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長…

  • 9

    老化した脳、わずか半年の有酸素運動で若返る=「脳…

  • 10

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 7

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story