最新記事
文学

白人男性作家に残された2つの道──MeToo時代の文壇とメディアと「私小説」

2021年10月14日(木)16時20分
野崎 歓(放送大学教授、東京大学名誉教授)※アステイオン94より転載

いわば自己の素裸の状態を出現させることが、カレールにとって突破口となる。というのも、もはや逃げ場を失い万策尽きたかに思えるまさにそのとき、外部の世界のありさまが、それまでとは異なる強い光を放ちながら視野に入ってくるからだ。それが『ヨガ』のクライマックス、ギリシアの島での物語へとつながっていく。精神病院を退院した直後の夏、「私自身から逃れるチャンス」を求めて、カレールはエーゲ海南部に浮かぶレロス島に赴く。それはEUの難民施設が置かれた島だった。

カレールはそこで、アメリカからボランティアとしてやってきていた女性フレデリカの主催する難民向け作文教室に加わる。そしてアフガニスタンやパキスタンから、親と別れて亡命してきた少年たちと交流し、彼らの過酷な体験を知る。『ヨガ』という作品が世界の現実に向けて大きく開かれていく部分である。

2つの点に注目したい。1つは、数百キロの旅を経てギリシアの島に漂着した少年たちの抱えた悲しみを知ることが、カレールにとって自己の経験の相対化をもたらさずにはいないということだ。カレールは少年たちに、自らの精神の苦悩や空虚について語って聞かせようとするが果たせない。彼らに比べあまりに恵まれた身でありながら、幸福をむざむざ台無しにしようとしている自分の生きざまが、少年たちの目には「破廉恥」なこととさえ映るだろうとカレールは悟る。それは彼の精神にとってプラスになる認識だった。

もう1つは、アメリカ人女性フレデリカとの関係だ。書くことと性愛が人生最大の目的と断言するカレールだが、フレデリカとのあいだに性的なかかわりは生じない。しかし、心に傷を負った初老の女性フレデリカと彼は、つかの間ではあれ、深い絆を結ぶ。一夜、フレデリカの熱愛するショパンの「英雄ポロネーズ」を、二人は幾度も繰り返し、夢中になって聴く。2人が貴重な何かを確かに共有したことを伝えるエピソードである。フレデリカはカレールに、若きマルタ・アルゲリッチが「英雄ポロネーズ」を弾くビデオがYouTubeで見られることを教える。その燃え上がるような演奏の終盤で、アルゲリッチの顔にほほえみが浮かぶ一瞬が、フレデリカとカレールに魂の救いをもたらす。

かつてサルトルが『嘔吐』(1938年)のラストで、ジャズシンガーの歌声に希望を託したことが思い出される。哲学の世界ではいま、マルクス・ガブリエルの提唱する新実存主義が注目を集めている。カレールの作品はそれとはまた独自に、新実存主義文学とでもいうべき方向性を示しているのではないか。不器用なまでに――むしろ不器用さを唯一の手法として――自らの存在の危機をさらけ出し、そこに読者や世界とのつながりを取り戻す可能性を賭ける。それは人生の意味を正面から問う文学なのである。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

米英首脳、両国間の投資拡大を歓迎 「特別な関係」の

ワールド

トランプ氏、パレスチナ国家承認巡り「英と見解相違」

ワールド

訂正-米政権、政治暴力やヘイトスピーチ規制の大統領

ビジネス

英中銀が金利据え置き、量的引き締めペース縮小 長期
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「何だこれは...」クルーズ船の客室に出現した「謎の物体」にSNS大爆笑、「深海魚」説に「カニ」説も?
  • 2
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 3
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ」感染爆発に対抗できる「100年前に忘れられた」治療法とは?
  • 4
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    アジア作品に日本人はいない? 伊坂幸太郎原作『ブ…
  • 7
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがま…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 10
    「ゾンビに襲われてるのかと...」荒野で車が立ち往生…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 4
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「何だこれは...」クルーズ船の客室に出現した「謎の…
  • 10
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 7
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 8
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 9
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 10
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中