モッセによれば、兵士や義勇兵たちによって形成された「戦争体験の神話」は政敵を非人間化し、その殲滅を目指す思考を受け入れやすくする。そのことによってファシズムの残忍さは、残忍であるがゆえに魅力的なものとなるのだ。
ドイツは既に、このウクライナ戦争をきっかけとして防衛予算の歴史的な増額を表明するなど「平和国家」から「強い国家」への道に転換しようとしている。ここにウクライナで戦っている右翼が持ち込む「戦争体験の神話」が加わるとどうなるか。
ドイツは今のところ他の欧州勢力に比べて極右政党のプレゼンスは比較的小さいが、今後は政権選択に影響を与えるようになるかもしれない。2017年に極右政党のAfD(ドイツのための選択肢)が初めて国会に議席を獲得したとき、当時のメルケル政権は連立パートナー選びに難航し、再選挙の寸前までいった。次の選挙でこのような危機が再び訪れるかもしれないし、既成政党も全体的に右傾化していくかもしれない。
もちろん、だからといってウクライナを非ナチ化するための戦争というロシアの理屈に一分の正当性も出てくるわけではない。むしろロシアの侵略のせいで右翼がウクライナに集結することになっているのだ。ウクライナに集結する右翼への危惧は、ロシアの侵略を相対化するものになってはならない。
『英霊』におけるモッセの議論は、我々がメディアを通して戦争を受容するときの戒めにもなるかもしれない。メディアを通して我々が「残忍化」するというと、我々は「××人を殺せ」のような好戦的メッセージの危険性をまず思い浮かべる。しかしモッセが取り上げているのはそれだけではない。戦没者追悼などを通した「英雄化」や、小説やゲーム、絵葉書、子供の玩具などを通した戦争表象の「陳腐化」も彼は議論の対象にしている。
我々が日々接しているメディアでも、ウクライナ戦争の「英雄化」や「陳腐化」が行われている。たとえばSNSで拡散されるような英雄的に戦うウクライナ兵士のエピソードや、ロシア軍に屈しないウクライナ市民たち、不屈の指導者としてのゼレンスキー表象、ウクライナを応援するための国旗色が施された様々なグッズ、などはその例といえるだろう。
戦争が始まってから二週間、SNSを含むメディアの進化によって、虚実入り混じった情報が急速なスピードで世界を飛び交い、戦争の「神話化」がリアルタイムで進んでいる。我々は少しずつ戦争に慣れ始め、戦時下の言語で語るようになっている。ウクライナ大使館の要請に応じて、日本人でも義勇兵としてウクライナの戦争に参加を希望する者が出現しているという。こうした傾向がモッセの言う通り政治の「残忍化」へとつながる可能性を、今から認識しておく必要があるのではないか。