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婚活殺人と木嶋佳苗事件──日本社会の偏見を映した小説が海外でベストセラー

MURDER AND MISOGYNY

2025年9月9日(火)18時12分
マルティナ・バラデル(オックスフォード大学博士研究員)、フランチェスカ・スコッティ(在イタリア小説家)
婚活殺人と木嶋佳苗事件──日本社会の偏見を映した小説が海外でベストセラー

英米でベストセラーに ALAMY/AFLO

<実際の「婚活殺人」事件に着想を得た柚木麻子の『BUTTER』は、日本のメディアと社会に深く根を張るステレオタイプに迫り、イギリスで40万部を突破するなど国際的に注目を集めている>

2009年8月のある朝、東京から約30キロ離れた埼玉県富士見市の駐車場内に停車していたレンタカーの後部席に男性が横たわっていた。ただ仮眠を取っているのではない。死んでいたのだ。

死因は一酸化炭素中毒。当初は自殺とみられたが、警察は不審に思い、彼と交際していた34歳の女性、木嶋佳苗に事情聴取を行った。これを皮切りに警察は首都圏連続不審死事件の捜査に乗り出すことになる。メディアが「婚活殺人」と呼んで大いに騒ぎ立てた事件である。


捜査が進むにつれ、木嶋は以前にも婚活サイトなどで知り合った数人の男性を殺害した疑いが持たれた。彼らの死も当初は自殺とみられたが、計3人については自殺に見せかけた殺害という線が濃厚になった。

法廷もこれを認め、木嶋(一貫して無実を主張)は有罪となり、死刑判決が下った。主として状況証拠による判決と広くみられたが、上告後も判決は覆らず、彼女は今も死刑囚として拘置所に収監されている。

これと似た事件がある。24年12月末に拘置所内で倒れているのが見つかり、その後病院で死亡が確認された筧千佐子の事件だ。筧は遺産目当てに夫を含む3人の男性を毒殺した罪で死刑が確定していた。

とはいえ、木嶋の事件には際立った特徴がある。事件発覚後、多くのメディアが注目したのは犯罪の悪質さではなく被告の容姿だった。ネット上でも既存メディアでも表現こそ違えど同じ問いが繰り返された。「ブスでデブ」と言われる女性がどうやって男たちをだましたのか、と。

「家庭的なタイプ」なのだろうという見方もあった。ぽっちゃりした女性は明るく母性的で料理上手というステレオタイプ的なイメージがある。男は「高根の花」の美人よりも、温かいお母さんタイプの女性を好むものだ、などと言われた。

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『BUTTER』イギリス版 FOURTH ESTATE

日本では死刑囚が社会に自分の考えを発信することはまずないが、木嶋は逮捕前からブログをつづり、裁判中、そして拘置後も(支援者を通じて)発信を続けた。

今もいろいろなテーマで長文を投稿している。差し入れのクッキーのこと、拘置所の実情、食事と運動のアドバイス、素人の裁判員が刑事裁判に加わることに関する考察などなど。

メディアは彼女の投稿をほじくり返し、そこに書かれた事柄を男女の役割や容姿に関する固定観念を補強する材料にしているが、木嶋はこれに反発。法的証拠よりも自分の外見に焦点が当てられることを鋭く批判し、社会の偏見を暴いている。

二重の罪を被る女性犯罪者

作家の柚木麻子は木嶋の事件に着想を得て小説『BUTTER』を書き上げた。

「婚活殺人事件」の真相を深掘りする女性記者が、「本物のバター」をこよなく愛し、食の快楽に耽溺する被告人に感化されていく。その過程で日本の社会に深く根を張る性差別や、それに伴う女性たちの痩せ願望などを考えさせる作品だ。

この小説はイギリスで40万部、アメリカで10万部を超えるベストセラーになり、イギリスでは権威ある文学賞「ブリティッシュ・ブック・アワード」のデビューフィクション部門をはじめ3つの賞を獲得する快挙を成し遂げた。

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バターしょうゆご飯 BRENT HOFACKER/SHUTTERSTOCK

自身も自伝的な小説を出版している木嶋はブログで、『BUTTER』の登場人物は自身とは無関係であり、柚木の描写が現実と乖離していると、怒りをぶちまけている。「フィクションの小説でも、名誉毀損は成立します」と木嶋はつづる。

だが柚木は私の取材に対して、事件の波紋──日本のメディアが犯罪の詳細よりもセンセーショナルな報道に走りがちなことに興味を覚えたと語った。

「日本のメディアは......有力な男性の視点を反映しがち......そう気付いたことが転機になった。それまで政治やメディアの偏向を疑問視することも問題にすることもなかった。でも自分が大好きなもの──料理が関わっていたので、きちんと向き合わなくては、と思った」

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エシレのバター MAURICE ROUGEMONTーGAMMA-RAPHO/GETTY IMAGES

『BUTTER』で、柚木は日本社会に深く根を張るステレオタイプ、特に女性と料理をめぐる固定観念を俎上に上げている。彼女によると、日本では今でも「婚活」が盛んで、料理好きの女性は「家庭的」とか「従順」と見なされがちだという。

だが柚木は自分の経験から、料理好きな人は従順とは程遠いと話す。むしろその逆だ。料理は力仕事で、料理上手の女性は他者に滋養を与えることもできれば傷つけることもできる。「慈しみ養うことと危険なまでの精緻さは紙一重」だというのだ。

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被告人と面会を重ねるうち女性記者は食の快楽に目覚めていく。エシレのバターを使ったバターしょうゆご飯に始まり、自分で七面鳥の丸焼きを作るまでに......。食欲をそそる料理の描写も読者を魅了する ALFA PHOTOSTUDIO/SHUTTERSTOCK

活動家や柚木のような作家にとって、ソーシャルメディアは多くの人とつながり思いを伝える強力なツールになっている。柚木は作家仲間と共に社会的弱者に寄り添い、ジェンダーや格差、刑事司法など相互に絡み合った諸問題について訴えている。

木嶋の事件はジェンダーと容姿に関する社会の期待の重みを深く考えさせる。女性の被告人は違法行為だけでなく、女らしさの規範に背いた罪でも裁かれるのである。

こうした二重の裁きは日本社会の歴史的なバイアスと一致する。日本では社会規範に挑む女性はしばしば危険な異分子と見なされてきた。型破りの悪女としての木嶋像は「毒婦」という古い言葉を想起させる。

木嶋に科された刑の厳しさは見せしめとも映る。多くの日本人の心の中では、彼女は殺人だけでなく、女らしさに対する社会の期待を操った罪に問われたのだ。

「彼女の犯した罪は司法の領域を超えて社会的制裁に値する」──この事件はそんなナラティブを広めた。

The Conversation

Martina Baradel, Marie Curie Postdoctoral Researcher, University of Oxford

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.


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