最新記事

ヨーロッパ

【ブルキニ問題】「ライシテの国」フランスは特殊だと切り捨てられるか?

2016年9月14日(水)16時45分
井上武史(九州大学大学院法学研究院准教授) ※BLOGOSより転載

ロンドンのフランス大使館前でフランスのブルキニ禁止令に抗議する人々(8月25日) Neil Hall-REUTERS

<フランスのブルキニ禁止令をめぐる問題は、同国内だけでなく、世界的な議論にも発展しており、来春のフランス大統領選の争点にもなりそうだ。議論の背景にある「政教分離」の考え方とはどのようなものなのか。フランスの憲法に詳しい井上武史・九州大学大学院法学研究院准教授に解説してもらった。>

ブルキニ論争

 フランスはこの夏、「ブルキニ問題」に揺れた。ニースやカンヌなど地中海に面する自治体の首長が海水浴場でのブルキニの着用を禁止し、違反者には罰金を課す命令を相次いで出したことの是非が問われた。論争はメディアや論壇だけにとどまらず、訴訟にまで発展した。

【参考記事】フランス警官、イスラム女性にブルキニを「脱げ」

 ブルキニとは、ムスリム女性の全身を覆う着衣「ブルカ」と水着の「ビキニ」を掛け合わせた造語で、顔を除く頭部から足首までの全身を覆う水着である。頭髪や肌の露出が禁じられるムスリム女性のために開発された。

 自治体がブルキニの着用禁止に踏み切った背景には、2015年1月のシャルリ・エブド事件、同年11月のパリ同時多発テロ事件など、フランス国内でイスラム国との関係が疑われるテロ事件が相次いで起こったこと、とりわけ、7月14日の革命記念日にニースで起こったテロ事件がある。フランスは現在でもイスラム国によるテロの標的になっており、イスラムを想起させるブルキニは人々に恐怖と不安を与えるというのが、首長たちが抱く禁止の動機である。

【参考記事】孤独なトラック・テロリストの暴走、職質警官が見逃す――イスラムと西洋の対立尖鋭化の恐れ

 しかし、イスラムだけを標的とする禁止措置は、「平等原則」に反するだけでなく、イスラム教徒への差別や憎悪を助長するおそれがある。そこで、各自治体はブルキニを名指しせずに、表向きは公共の場で特定宗教のシンボルを掲げることが、「ライシテ原則(政教分離原則)」に違反し、許されないと主張したのだった。

 実際、訴訟で争われたヴィルヌーヴルベ(ニースとカンヌの間に位置する自治体)の禁止令は、次のように定めていた。

「ヴィルヌーヴルベのすべての海岸において、6月15日から9月15日までの間、社会通念に適い、善良な風俗及びライシテ原則を尊重し、海水浴場の衛生及び安全に関する規則を順守する身なりを施していない者は、海水浴場に立ち入ることができない。」

 仮に同じ問題が日本で起こったとして考えてみよう。ビーチでどのような身なりをするのか、どのような水着を着用するのかは個人の自由の問題であり、行政が口出しする筋合いのものではないだろう。同じく、全身の大部分を覆うウェットスーツやラッシュガードが許されて、ブルキニが禁止される理由を説明するのは難しい。さらに、水着の選択に宗教的な意味があるのならば、重要な基本的人権である信教の自由(日本国憲法20条)に関わるため、その規制にはより一層高い必要性と合理性が求められる。

 だが、フランスではまさにブルキニに宗教的な意味があるからこそ規制の対象となった。そして、その根拠として持ち出されたのがライシテ原則である。

ライシテ原則とは何か?

 ライシテ原則とは、国家(政治)と宗教との関係についての原則で、日本の政教分離原則に相当する。この原則は1905年の政教分離法で確立され、現在では憲法で定められたフランス国家の基本理念の重要な1つに数えられる。憲法1条はフランスが「ライシテの共和国」であると規定している。

 ライシテ(laicite)という言葉は、聖職者と対比される「人々」を意味するギリシャ語に由来する。この語源に照らせば、ライシテとは本来、「聖職者によらないこと」「世俗的であること」である。

 法原則としてのライシテ原則の内容は、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返せ」という聖書の言葉で説明されるように、国家の領域と宗教の領域とを区別することである。このことを政教分離法は冒頭の2か条で具体的にルール化している。それは、

①個人や宗教に対して良心の自由と自由な宗教活動を保障すること(第1条)
②国家に対して宗教に対する公認、俸給の支払い、補助金の交付を禁止していること(第2条)

 である。

 このうち②によってフランスは、イギリスのような国教制も、ドイツのようにカトリックやプロテスタントなどの主要宗教に特別な地位を認める公認宗教制も採用できない。国家はいかなる宗教に対しても中立でなければならない。

 ライシテ原則によって、事実上の国教であったカトリック教会はそれまでの特権的な地位を失った。フランスは古くから「教会の長姉」と呼ばれるほどの伝統的なカトリックの国であるが、カトリック教会は単なる私的団体に過ぎなくなった。

 一方、ライシテ原則と言えば政教分離の側面が強調されるが、信教の自由を軽視するものではない。信教の自由は1789年のフランス人権宣言で認められた普遍的な人権としての意味を持っており、政教分離法や現行憲法でもその保障は当然の前提になっている。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

元、対通貨バスケットで4年半ぶり安値 基準値は11

ビジネス

大企業の業況感は小動き、米関税の影響限定的=6月日

ワールド

NZ企業信頼感、第2四半期は改善 需要状況に格差=

ビジネス

米ホーム・デポ、特殊建材卸売りのGMSを43億ドル
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 2
    普通に頼んだのに...マクドナルドから渡された「とんでもないモノ」に仰天
  • 3
    ワニに襲われ女性が死亡...カヌー転覆後に水中へ引きずり込まれる
  • 4
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 5
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 6
    「パイロットとCAが...」暴露動画が示した「機内での…
  • 7
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 8
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 9
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 10
    顧客の経営課題に寄り添う──「経営のプロ」の視点を…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 5
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 6
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 9
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 10
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中