焦点:福島事故を見つめた日本の15年、強まる原発回帰 復興見据える目
東京電力柏崎刈羽原子力発電所。2025年12月、新潟県柏崎市で撮影。REUTERS/Issei Kato
Mariko Katsumura John Geddie Katya Golubkova Nobuhiro Kubo
[福島県いわき市 10日 ロイター] - 巨大地震と津波が東日本を襲った2011年3月11日、橋本拓真さんの一家は自宅から離れられずにいた。車に遠くまで避難するガソリンはなく、祖父の体調も悪かった。自宅のある福島県いわき市から車で約1時間の距離にある福島第1原子力発電所で炉心が溶解し、1986年のチェルノービリ以降最悪となった原発事故が進行する中、十分な情報も得られず一家5人で不安と戦った。
あれから15年。18歳になった橋本さんは原子力の仕事に就くことを志し、いわき市の福島工業高等専門学校に通っている。「福島に住んでいる以上、原発の事故は知っておくべきだし、自分たちで学んだ技術を使って何かできたらいいと考えている」と橋本さんは話す。「原子力を一概に危険なものとして扱うのではなくて、将来のエネルギーの選択肢の1つとして考えていく」という。
ロイターは橋本さんら福島高専の生徒や教師、事故当時に首相官邸で危機管理に当たった元政府職員、長く原子力産業に携わり、今は新型炉を開発する技術者に話を聞いた。そこから浮かび上がったのは、一度は放棄した原子力という選択肢に回帰していく日本と、その中で事故を受け止め、その先の復興を見据える人の姿だった。
エネルギー自給率が低い日本はかつて54基の原発を動かし、電力需要の約3割をまかなっていた。それが福島第1原発の事故で一変した。世論は反原発へ傾き、全ての原発を停止、当時の民主党政権が2012年に「原発ゼロ」を提言した。政権が代わって新たな安全基準を満たした原発は再稼働が認められるようになったが、そのペースは鈍く、廃炉になる原発も相次いだ。
変化が訪れたのは2022年。ロシアがウクライナへ侵攻し、石油や天然ガスなどのエネルギー調達に不安が広がった。エネルギー価格も上昇、政府は再稼働の拡大だけでなく増設を認め、現在の高市早苗政権は次世代炉の推進も掲げる。今年1月には新潟県の柏崎刈羽原発6号機が再稼働し、福島の事故後初めて東京電力の原発が動き始めた。
しかし、原子力回帰を担う人材は脆弱だ。文部科学省によると、大学の原子力関連学科・専攻に入学した学生数は2024年に177人。福島の事故直前の317人、最も多かった90年代初めの673人から減少した。原発がすべて止まったことで原発産業のサプライチェーン(供給網)も打撃を受けた。
橋本さんが通う福島高専は国立の教育機関で、事故以降は廃炉を含めた原発産業の人材も育成している。鈴木茂和副校長は「原子力発電所の運転経験がある人は特に若い人にいない。高専卒だと20年ぐらいの期間はごっそり抜けている」と話す。「学生には理論や知識を身に着け、実際に現場で働いている人の話を聞いたりして、(原発の是非を)自分で判断できるようになってもらいたいと思っている」と語る。
橋本さんは1年生のときに受けた授業で原子力に興味を持ち、2年生になってロボットや材料学を学ぶ鈴木さんの研究室に入った。そこから福島原発の事故や廃炉について学び、各地の原発を見て回った。
橋本さんの家族は彼が進むと決めた道を応援している。しかし、橋本さん自身はその道を誰もが支持するわけではないことを知っている。ほぼ毎週、通学途中の駅で反原発の抗議活動を目にする。それでも「原子力を正しく使い、万が一の時の対策や、そうならないための技術が必要になってくる」と考えている。
<3.11の教訓は「謙虚さ」>
政府の職員だった稲田誠士(49)さんは原発事故発生時、危機対応チームの一員として東京・永田町の首相官邸地下にある指揮所に詰めていた。室内は疲れ切った職員であふれ、机で仮眠を取る姿もあった。
地震と津波による被害者数の集計を担当していた稲田さんは、部屋の奥に設置された大型スクリーンに原子炉建屋が爆発する映像が流れるのを見て言葉を失った。原発周辺から約15万人が避難を余儀なくされた。
東京が放射能の雲に覆われる恐れも政府として想定せざるを得なかったと、稲田さんは振り返る。短い昼休みに父に電話し、「詳しいことは言えないけれど、最悪の事態に備えてほしい」と伝えたという。
国会が設置した事故調査委員会は2012年、事故を自然災害ではなく東電と規制当局による「人災」とする報告書をまとめた。
現在はコンサルティング会社のFGSグローバルで働く稲田さんは「3.11の教訓は謙虚さだと思う」と話す。「発生する確率が低い事態でも現実には起こり得る。重要なのはガバナンスだ」と指摘、日本が原子力へ回帰するとは当時想像できなかったが、「時間がトラウマ(心の傷)を癒やす」とみている。
「2011年の衝撃は非常に大きく、多くの人の意識に影響した。それが時間の経過とともに感情論から現実論へ移行した」と稲田さんは言う。
<100%の安全はない>
東芝の原子力技師長として業界に長く携わる松永圭司さん(59)は福島の教訓を生かし、より安全な新型炉の開発を進めている。旧ソ連のチェルノービリ原発事故から5年後の1991年、東芝に入社した松永さんは、原発につきまとう負のイメージを常に意識してきた。
「当時もネガティブな意見はあったが、世界中で多くの原子力発電所が安全に稼働していることを考えれば、安全性を確保することは可能だと考え、自分がその一端を担いたいと考えた」と松永さんは語る。
松永さんが福島の事故の知らせを受けたのは、米国で新設する原子炉の許認可を得るためワシントンへ出張している最中だった。東京からの電話でホテルの部屋のテレビをつけると、建屋が爆発する映像が流れた。「現実のことかどうかがすぐには認識できなかった」と振り返る。帰国後は東京・内幸町の東電本社で、放水車の手配など事故の対応に当たった。
原発への風当たりは一段と強まった。2006年に東芝が買収した米ウエスチングハウスは事故の影響もあって経営破たんした。しかし、家族は松永さんの仕事を支えた。当時中学生だった娘が授業中、原発について批判的なことを口にした教師と口論になったことを松永さんは覚えている。
松永さんが開発を主導する新型炉は、建屋の屋根を鋼板とコンクリートで補強し、航空機が落ちる衝撃にも耐え得る構造だ。福島第1原発の事故のように電源を失っても水が自然に循環し、炉心を7日間冷却し続けられる安全措置も取り入れた。
「100%の安全はないと昔から考えていた。福島で起きたことは非常にショックだったが、それで原子力発電はだめだとは思わなかった」と松永さんは言う。「むしろそれを乗り越えて、より安全性を高めて二度と起きないようにするためにはどうすればいいのかを考えた。今もそう思っている」と語る。
あの日から15回目の3月11日が迫る2月下旬、海辺に近いいわき市は冷たい風が吹いていた。小高い丘に立つ福島高専の敷地内では、放射線量を計測するモニタリングポストが今も動いている。
4歳のときに被災した相澤陽花里(19)さんは化学の知識を活かして原子力関係の仕事に就きたいと考えている。「(高専で)原子力を学ぼうと思ったのは、進路を考える上で福島の復興に近い立場で貢献したい気持ちがあったから」と話す。「近くで支えられる廃炉に興味を持った。原子力発電も電力源として大切だと思っている」。
(勝村麻利子、John Geddie、Katya Golubcova、久保信博 取材協力:Tim Kelly 編集:石田仁志)
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