コラム

「ベートーベン鉛中毒説」がより精密に根拠付けられる 「梅毒にかかっていた」疑惑についても進展あり?

2024年06月13日(木)22時20分

また、ベートーベンの死因の研究は、今日に至るまで数多くがなされています。というのも、ベートーベンは当時から偉人であったため、周囲の人の多くは死の直前や直後に記念品や形見として毛髪を欲しがりました。元々は長くてフサフサだったベートーベンの頭ですが、死後には毛髪が一本も残らないほどだったと言います。その毛髪が後世に伝わり、分析試料となりました。

これまでの研究では、ベートーベンの直接の死因は、重度のアルコール摂取説、感染性の肝疾患説、重金属汚染説などが唱えられてきました。

とくに重金属である鉛の中毒は、①当時の安物ワインは甘味を足すために酢酸鉛が添加されていたこと、②ベートーベンは大酒飲みであったこと、③重金属を生物濃縮する魚も好んで食べていたこと、③鉛は胃腸障害や頭痛、聴力低下、イライラした性格の原因になりうること、④当時の肝炎はほとんどがA型と考えられており、肝硬変を起こすB型やC型は稀であったことなどから、死因や生前の体調不良の原因として有力視されていました。

鉛中毒の根拠とされた毛髪は女性のもの

2000年に発表された研究では、ドイツの作曲家フェルディナント・ヒラーがベートーベンの死亡直後に切り取ったとされる毛髪から高濃度の鉛を検出し、鉛中毒説が裏付けられたと考えられました。

ところが23年、ケンブリッジ大を中心とした国際研究チームがヒラーの所有していた毛髪を含む8房の毛髪の束を遺伝子解析したところ、鉛中毒の根拠とされた毛髪はアシュケナージ系ユダヤ人の遺伝子を持つ女性のもの、つまりベートーベンのものではないことが判明しました。

ケンブリッジ大チームは、8房中5房の遺伝子が一致したことで、伝承されている状況からもこれらが本物のベートーベンの毛髪である可能性が高いと判定しました。それらを詳細に分析したところ、ベートーベンは少なくとも死の数カ月前にB型肝炎ウイルスに感染していたこと、遺伝的に肝臓病になりやすい体質であったことが分かりました。

そして、死因はB型肝炎と大量のアルコール摂取による肝疾患リスクが複合的に合わさった肝硬変である可能性が高いと結論付けました。もっとも、若くして難聴になった原因や胃腸障害については解明することはできませんでした。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

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