戦後75周年企画:連合軍捕虜の引き揚げの記録を初公開 ~あの日、何があったのか【Part 4】

釜石収容所の元捕虜フックさんに贈られた『釜石艦砲戦災誌』を手にする息子のポールさん(2019年8月、オランダ) COURTESY KOGURE FAMILY
<終戦の日、日本国内には130カ所の連合軍捕虜収容所があり、岩手県釜石市に746人の捕虜がいた。彼らが引き揚げるまでの1カ月間についてつづられたノンフィクション「降伏の時」(筆者:中山喜代平〔本名:稲木誠〕)を4回に分けて公開する。今回はその最終章。捕虜引き揚げのあの日、釜石捕虜収容所で何があったのか。そして舞台は稲木の戦後へと続く――>
※ここまでの話(戦後75周年企画:連合軍捕虜の引き揚げの記録を初公開 ~あの日、何があったのか【Part 1】【Part 2】【Part 3】)はこちら
軍刀没収
13日午後、米軍の先遣隊だという中尉以下3人がジープでやって来て、兵士たちを内庭に集め、引き揚げ船は2、3日中に来るから無断で脱出しないで待つようにと告げた。
中尉は事務室に入ってきて腰掛けると、帰国の土産に盆栽が欲しいという。こんなに焼け野原になってしまったところに盆栽などあるだろうかと思ったが、電話で製鉄所の労務課長に相談すると、間もなくケヤキの盆栽を届けてくれた。
ヴーナスと名乗る中尉は私の軍刀をくれないかと言った。私は、個人の所有している軍刀は没収されないと指示を受けていると、丁寧に断った。すると今度は私の襟につけている階級章をくれと言った。階級章は他の人ももらっているという。軍隊が解隊された今は大した意味もなくなった物なので、自分の手で階級章を取ってその男に渡した。
この中尉は、戦後初めて会った敵の将校だった。連合軍の力を嵩に、平気な顔であれこれ物をくれという気味の悪い奴だが、相手は勝利者だ。そつがないように応待していると間もなく帰って行った。
14日になると仙台俘虜収容所から辻通訳官が応援に来て、引き揚げは明日らしいと知らせた。中央では嶋田繁太郎海軍大将が米軍に逮捕され、杉山元元帥をはじめ多くの将校が自決したという情報を伝えた。軍刀は私有の物も没収されるらしいという。
実は10日ほど前に妹が会いに来て、私の軍刀を持って帰るというのを、私は大丈夫だからと断っていた。妹は宇都宮の大空襲で家を焼かれ親戚の家にいたが、釜石の艦砲射撃で収容所が焼失したことを聞いて以来、私が死んだのか生きているのか分からなくなり、戦争が終わったので確かめに来た。軍刀は物に包んだところでそれと分かるから、女性が持ち歩けば軍刀を狙う者に襲われる恐れもあるので断り、ゆっくり話す暇もなく妹を帰したのだった。
昼食が終わってしばらくした頃、1人の兵士が事務室に来て私の机の前で何か話し掛けるので聞き返すと、
「ブラックストン中尉があなたの軍刀の引き渡しを求めています」
と言う。私は私有の軍刀は没収されないと指示を受けていると断った。彼は帰って行ったが再び現れて言った。
「ブラックストン中尉は軍刀を没収すると命じています」
「よろしい。それでは領収証と引き換えに渡すことにしましょう」
敗残の将校は先方の要求を拒むことは出来なかった。私の軍刀は長船の銘のある直刀だった。父がこういうものが好きで10本ばかり集めていたが、その中から選んで軍刀にしつらえた業物だった。
敗戦となって米軍将校がピストルを腰にして、身軽に行動しているのを見ると、長い軍刀をぶら下げていた日本の将校は間抜けに感じられた。近代戦は大砲、戦車、航空機が決定的役割を果たした。軍刀は日本軍の装備の時代錯誤を象徴していた。
兵士が受領証の紙片を手にして来ると、私は帯革から軍刀をはずして兵士に渡した。
<こんなものを腰にぶら下げていたから負けたのだ!>
私は強いて自分を納得させようとしたが、ブラックストンにしてやられた思いが残った。2、3カ月前に彼を処罰したことに仕返しされたと思った。