最新記事
中東和平

死に絶える中東和平と新和平案というだまし絵

2020年4月9日(木)13時30分
アルモーメン・アブドーラ(東海大学教授)

全ての問題の発端はオスロ合意だ。トランプの和平案に対して、多くのアラブ人の専門家や有識者はそのように見ている。オスロ合意は93年、ノルウェーの仲介による秘密交渉で実現したもので、正式には「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」。イスラエルのイツハク・ラビン首相(当時)とパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長が、ビル・クリントン米大統領の立ち合いの下、ワシントンのホワイトハウスで調印した。これはパレスチナ人との共存がうたい文句だったが、今になって自分を含む大半のアラブ人は、オスロ合意こそがパレスチナの独立権をフイにしたと考えるようになった。国家樹立のためにパレスチナ人が長年闘争し、そのために払ってきた犠牲を台無しにしたのがオスロ合意だと。そして、全てが欧米による策略だったのではないかとまで思うようになったのだ。

オスロ合意により、パレスチナ人は陸の孤島のように分断された自治区に事実上閉じ込められ、不自由で貧しい生活を強いられることになった。パレスチナ人の国家もできず、首都としての東エルサレムの奪還も、パレスチナ人の帰還権も何一つ手に入れることができなかった。むしろ、1947年の国連決議で決められた2国家構想や国際社会による約束の領土も奪われた。

つまりアメリカやイスラエルはオスロ合意という見せかけの合意を作り、民族の自決権としてのパレスチナ国家の樹立問題を、単なるパレスチナとイスラエルの政治的争いという問題にすり替えてしまった。イスラエルやアメリカは、国際法や国連憲章によって保障されているはずの民族自決権や民族解放闘争、とりわけイスラエルの非合法占領に対するパレスチナ人の闘争の権利を非合法化するために、和平交渉やオスロ合意を働きかけ、それを口実に占領を合法化しようとしてきた。

私が日本に来てから25年が経つ。その間、イラク経済封鎖、9.11アメリカ同時多発テロ、イラク戦争、イラク内戦、イスラエルのガザ攻撃、イスラエルのレバノン攻撃、アラブの春、リビア内戦、シリア内戦、イエメン内戦と、中東地域をめぐる数々の出来事が起きた。それらを見つめる中で、なぜテロが起きるのか、テロを起こした人間はどんなきっかけでそうなったのかといった多くの疑問が頭をよぎった。最近思うに、人間は努力や苦悩を続けても報われないと「何をやってもダメだ」と失望し、また、追い詰められた状況が続くと過激な思想に走る確率が高くなる。これは平和の力を信じて努力や苦悩をしてきた人の場合も同じだ。そのことは「武力なしに平和の実現はない」と力に訴える声に説得力を持たせることにつながるだろう。これを心理学者であるビクトール・フランクルの「苦悩と絶望に関する公式」に当てはめて、「解(かい)」を得ようとすると次のようになる。

絶望=努力や苦悩−意味

フランクルは、ナチスドイツによるアウシュビッツ強制収容所に収容されるという絶望的な状況の中で、わずかな希望を見出して、奇跡的に生き延びたユダヤ人の1人。彼によると絶望とは、苦悩から意味を差し引いたことをいう。つまり、絶望とは意味なき苦悩だ。

絶望的な状況に追い込まれた人たちに共通するのは、わずかでも決して希望を失わないということだ。イスラエルの軍事占領下で苦しめられているパレスチナ人の場合でいうと、これまで70年間、「パレスチナ」の国家建設を手に入れるために苦悩に苦悩を重ねて、未来への希望を紡ごうとしてきた。つまりパレスチナ人が捉える和平への希望と、占領による苦悩は次の公式で説明できよう。

希望=努力や苦悩+意味

つまりパレスチナにとって和平への希望とは、占領に苦しめられている苦悩に、いつか自由になれるという意味を加えたもの。それによって苦悩は、意味のある苦悩となる。しかし、そんな明日への希望を抱ける気持ちすら、トランプの和平案によって打ち砕かれた。

良い戦争はないと信じたいところだが、パレスチナの今の状況を見ると、圧倒的な力で抑えつけようとしているイスラエルに対して、力づくで平和を勝ち取るしかないとの考えが出てきても不思議ではない。しかし、それは危険な考えだ。そして、このように追い詰められた人間こそ、暴力やテロの一番の原因となる。パレスチナ人には大義があり、自分たちは追い詰められていると信じている。イスラエルにも大義があり、追い詰められていると信じている。トランプの和平案はイスラエルの大義を正当化し、パレスチナの民族自決権とその大義を否定するものだ。どちらもその大義によって相手への憎悪が増して、無差別に傷付ける......それに拍車をかけるのがトランプの新和平案だ。どうかこれ以上、パレスチナ人を絶望の淵へ追いやるのをやめてほしい。

almomen-shot.jpg【執筆者】アルモーメン・アブドーラ
エジプト・カイロ生まれ。東海大学・国際教育センター教授。日本研究家。2001年、学習院大学文学部日本語日本文学科卒業。同大学大学院人文科学研究科で、日本語とアラビア語の対照言語学を研究、日本語日本文学博士号を取得。02~03年に「NHK アラビア語ラジオ講座」にアシスタント講師として、03~08年に「NHKテレビでアラビア語」に講師としてレギュラー出演していた。現在はNHK・BS放送アルジャジーラニュースの放送通訳のほか、天皇・皇后両陛下やアラブ諸国首脳、パレスチナ自治政府アッバス議長などの通訳を務める。元サウジアラビア王国大使館文化部スーパーバイザー。近著に「地図が読めないアラブ人、道を聞けない日本人」 (小学館)、「日本語とアラビア語の慣用的表現の対照研究: 比喩的思考と意味理解を中心に」(国書刊行会」などがある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

NY外為市場=ドル弱含み、米イラン停戦維持を注視

ビジネス

米国株式市場=続伸、中東和平交渉への期待感で

ワールド

EXCLUSIVE-トランプ氏、欧州駐留米軍の一部

ワールド

ロシア大統領特使が訪米、ウクライナ和平や経済協力巡
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプの大誤算
特集:トランプの大誤算
2026年4月14日号(4/ 7発売)

国民向け演説は「フェイク」の繰り返し。泥沼化するイラン攻撃の出口は見えない

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文章」...歴史を塗り替えかねない、その内容とは?
  • 2
    バリ島沖の要衝で「中国製水中ドローン」が回収される...潜水艦の重要ルートで一体何をしていた?
  • 3
    ポケモンで遊ぶと脳に「専用の領域」ができる? ポケモンが脳の発達や病気の治療に役立つかも
  • 4
    撃墜された米国機から財布やID回収か、イラン側が拡…
  • 5
    韓国、生理用品無償支給を7月から開始 靴の中敷きで…
  • 6
    戸建てシフトで激変する住宅市場
  • 7
    高学力の男女で見ても、日本の男女の年収格差は世界…
  • 8
    目のやり場に困る...元アイスホッケー女性選手の「密…
  • 9
    「地獄を見る」のは米国か──イラン地上侵攻なら革命…
  • 10
    「仕事ができる人」になる、ただ1つの条件...「頑張…
  • 1
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの疑問
  • 2
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文章」...歴史を塗り替えかねない、その内容とは?
  • 3
    韓国、生理用品無償支給を7月から開始 靴の中敷きで代用した少女たちから10年、アジア初の普遍的支援へ
  • 4
    イラン戦争の現実...アメリカとイスラエル、見え始め…
  • 5
    「南東部と東部の前線で480平方キロ奪還」とウクライ…
  • 6
    「考えの浅い親」が子どもに言ってしまっている口ぐ…
  • 7
    「地獄を見る」のは米国か──イラン地上侵攻なら革命…
  • 8
    バリ島沖の要衝で「中国製水中ドローン」が回収され…
  • 9
    ポケモンで遊ぶと脳に「専用の領域」ができる? ポ…
  • 10
    攻撃開始日も知っていた?──イラン戦争を巡る巨額取引…
  • 1
    温暖化で増えた? サンマやサケ減少の裏で激増する「安価で栄養価の高い魚」の正体
  • 2
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの疑問
  • 3
    「根底にあるのは怒り」...日本の「3Dプリンター住宅」企業が救う、ウクライナの未来
  • 4
    「ノーと言えるスペイン」の背景に国防意識...次期ス…
  • 5
    キャサリン皇太子妃、ナイジェリア大統領夫妻出迎え…
  • 6
    数時間以内に死に至ることも...若者の間で集団感染が…
  • 7
    「日本より、自分の国(フランス)を心配すれば?」…
  • 8
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文…
  • 9
    米軍も防ぎきれないイランのドローン攻撃──イラン製…
  • 10
    メーガン妃、娘リリベット王女との「お手伝い姿」公…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中