最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く

子供、子供、子供――マニラのスラムにて

2017年4月20日(木)16時40分
いとうせいこう

ふたつめのセッション

ふたつめのセッションはわりとすぐに始まった。いつの間にか椅子には驚くほどの早さで別の地域の女性たちが座っており、やはり知りたさの熱意をこめた目で前を見ていた。中には俺が話を聞いたイメリン・L・セルナさんもいた。

茹でトウモロコシ売りの夫を持つ彼女は隣人からリカーンの噂を聞き、実際にリナの話に耳を傾けることにした。インプラントを入れたが副作用で眠りにくくなり、ピルに切り替えたのだと言っていた。


「とにかく子供を学校に行かせたいんです」

というイメリンさんの言葉がすべてだった。彼女はすでに2人の子供を持っていて、その場にも太った5歳の一人がいた。今以上に子供が増えることは誰かが学校に行けなくなることにつながっていた。だから彼女は絶対に妊娠してはならないのだった。

セッションの近くでジュニーがコンドームの配布を始めた。写真など撮るとすぐに受け取ってくれなくなるのでと注意があったように、トンドの人々は自分らが避妊をすることを知られたくなかった。事実、誰かが小箱をもらうと恥ずかしそうに本人も笑い、周囲も同じように笑った。中にはもらった箱を嗅いでみる青年もいた。ひと箱でも配布すると、ジュニーは誰がもらったかをノートに書きつけた。

行商のように移動を始めるジュニーについて、俺と谷口さんとロセルも路地の奥に入った。道はどこまでもコンクリででこぼこしていた。幅10センチくらいの溝があり、そこに洗濯を済ませた泡だらけの水や洗い物の水が流れていた。狭いそのコンクリの上をスクーターで走り抜ける者がいた。老人がパンツ一丁で座り込み、ジュニがコンドームの効用を若い女性たちに説くのを見ていた。

家の壁はブロックで荒っぽく積まれていたり、トタンだったり、スペイン風のベランダを二階から飛び出させていたりと様々だった。

濡れがちの道の唯一乾いたエリアにちょこんと猫が座っていた。犬の声がし、サンダルがコンクリをこする音がした。人糞が落ちていたり、子供がシャワーを浴びさせられたり、大音量のカラオケマシンに合わせてやはり子供たちが何かがなっていた。女が通り、なぜか手に持ったカゴに子犬をぎっしり積んでいた。

住人たちは貧しい。

けれど彼らは活き活きとしていた。こちらの腹わたに直接しみてくるような、リアルな生の感覚がどこを歩いてもあった。俺は熱に浮かされたようにふらふら路地を行った。コンドーム配布に集中していたはずのジュニーから、ロセル経由で後ろから忠告があった。


荷物には一応気をつけてください。

確かに路地の子供たちの目は時折、ロセルや谷口さんの一眼レフに刺さることがあった。俺が写真を撮るスマホの上にも集まったりした。互いに受け入れあったように見えても、しょせん俺たちはよそ者であり、間抜けな取材者だった。

それでも俺はついてくる子供に笑顔を向けずにはいられなかった。

中に5歳ほどのかわいらしい女の子がいた。

彼女は元の広場で自分より小さな女の子を世話していた。

けれど俺たちが移動すると様子を見たくて仕方なくなり、自分だけついて歩いてきたのだった。

やがて路地の曲がり角でじっと周囲を見る俺に、その女の子は近づいてきた。にっこり笑うと彼女もにっこり笑った。彼女は広場の方向を指さした。そして無邪気な声でたどたどしくこう言った。


「プリンセス」

すぐには意味がわからなかった。女の子はもう一度背後を指さして言う。


「プリンセス」

ああ、あの小さな子が彼女のプリンセスなのだとわかった。それを待たせているのが気がかりなのだ。

だから俺も同じ方向を示してプリンセスと言い、うなづく女の子のあとをついて広場へ帰った。

俺たちのプリンセスが待っている場所へ。

その時、俺は自分がスラムにいることをまたすっかり忘れていた。まるで子供の頃に戻り、不思議な物語に誘い込まれたような気分のまま、俺は薄暗い路地を歩いた。

もちろんあの飛行機の中の男、日本の空港に着く頃には消えていた人物が家々の隙間から俺を見つめていてもよかった。彼は俺の中に良心が満ちる度に俺のそばに現れるのだから。


itou0420e.jpg

トンドの日常

<続く>

profile-itou.jpegいとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米4月雇用17.5万人増、予想以上に鈍化 失業率3

ビジネス

米雇用なお堅調、景気過熱していないとの確信増す可能

ビジネス

債券・株式に資金流入、暗号資産は6億ドル流出=Bo

ビジネス

米金利先物、9月利下げ確率約78%に上昇 雇用者数
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国の研究チームが開発した「第3のダイヤモンド合成法」の意義とは?

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    サプリ常用は要注意、健康的な睡眠を助ける「就寝前の適切な習慣」とは?

  • 4

    「TSMC創業者」モリス・チャンが、IBM工場の買収を視…

  • 5

    元ファーストレディの「知っている人」発言...メーガ…

  • 6

    「500万ドルの最新鋭レーダー」を爆破...劇的瞬間を…

  • 7

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 8

    映画『オッペンハイマー』考察:核をもたらしたのち…

  • 9

    中国のコモディティ爆買い続く、 最終兵器「人民元切…

  • 10

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる4択クイズ

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ…

  • 6

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 7

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 10

    メーガン妃の「限定いちごジャム」を贈られた「問題…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中