コラム

電子書籍革命で攻めに転じた米出版社、守る日本の出版社

2011年11月02日(水)12時40分

 いったい、電子書籍にはどんな価格が適正なのだろうか?

 実は今のところ、その正解を知っている人間は誰もいない。電子書籍では日本の数年先を行き、無数に出版されているアメリカでも、価格はまちまちだ。同じ書籍でも、注意深く見ていると時々値段が変わっていることもある。

 ただ、ハードカバーの単行本と値段がほとんど変わらない日本の電子書籍に比べると、アメリカでは格段に安い。アメリカではハードカバーの単行本が日本よりずっと高く、平均して25ドルほどの価格がついているが、電子書籍ならば10ドル前後が普通。だいたい半分、あるいはそれ以下の価格で買えるのだ。

 この価格破壊を先導したのはアマゾンだった。新しい市場を開拓するために出血サービルで激安値段をつけるのは同社の常套手段。電子書籍でも同様で、ほとんど持ち出しの9.99ドル均一で売り出し、電子書籍の普及に大いに貢献した。

 ただ、電子書籍に安値を付けたのはアマゾンだけではない。出版社も、安すぎるアマゾンの価格設定には抵抗していたものの、ハードカバーよりも安く設定すること自体には前向きだった。安い電子書籍に読者が流れていってプリント版書籍が売れなくなれば、プリント版書籍にかかっている印刷や流通のコストが賄えなくなる。そんなリスクも大きかったが、とりあえずはハードカバーよりも安い値段でスタートすることは当初から想定していた。

 さて、これをハードカバーと同じ値段、あるいは似たような値段を付けられている日本の状況と比べてみよう。この違いの理由は何か。

 ひとつは、日本ではそれがまかり通ることである。日本の電子書籍市場はまだ揺籃期で、はっきりしたかたちがない。どのプラットフォームでどのデバイスを用い、どこからコンテンツを買うのかついて、クリアーな選択の全貌が見えないのだ。そうした状況の中では、適正価格の見極めようもなく、したがってどんな価格でもかまわないのだ。

 ふたつめは、消費者、つまり読者による圧力がないことが挙げられるだろう。印刷にも流通にも金のかからない電子書籍をプリント版と同じ値段にしてしまったりすると、少なくともアメリカでは出版社が総スカンを喰う。アメリカの消費者は価格に厳しい上、デジタル時代になって以降、企業が技術導入によって価格を押し下げて当たり前と感じるようになっている。そんな努力やイノベーションをアピールしない企業は、魅力半減なのだ。

 さらに、これはよく言われることだが、硬直的な日本の産業構造にも言及しないわけにはいかない。アメリカではデジタル技術に合わせて、あらゆる産業が再編成されているのだが、日本の場合は現状の構造をがっちりと維持したまま、ある限られた部分がデジタルによって置き換えられるということになっているようだ。ハードカバーと変わらない電子書籍の価格設定もその現れで、取り次ぎ構造などの複雑な現状を維持するコストなのだろう。これでは電子書籍が大きく離陸できるはずもなく、既存の産業がデジタル技術によって受ける恩恵も限られたものになってしまう。

 さらに大げさなことを付け加えると、産業界がどんな世界観を描いているのかの違いもある。日本は電子書籍や、出版界で今「黒船」と呼ばれているアマゾン、アップルなどアメリカのプラットフォームの到来によって、市場の取り合いが激しくなると見ているようだ。書籍市場、読者市場はこれ以上大きくならないという見方だ。だが、アメリカでは、多少プレイヤーの入れ替えはあるだろうが、やり方次第で市場自体が大きく拡大し、そこに参加したみながその益に利するのだという、漠然とした楽観的な世界観がある。

 この点における両国の違いはけっこう大きく、アメリカ企業が守りよりも攻めに出ているのはそのためだ。そうすることによって、次の時代の正式プレイヤーになろうとしているのだが、同じような意気込みが日本からは感じられない。

 先だって、マーケティングのグルと呼ばれるセス・ゴーディンと話す機会があった。超人気の著者であるゴーディンは既存の出版界を離れ、今や一切の活動をアマゾン上に移してしまった。同社のプラットフォームを利用し、プリント版書籍も電子書籍もアマゾンから発行するというのである。ゴーディンは個人作家だが、彼も「攻め」に出ていると言えるだろう。

 ゴーディンは、電子、プリント版に限らず、果たして書籍の適正価格があるのかどうか自体がわからなくなっていると語っていた。同じ著作でも、安い電子書籍で出すものもあれば、手作り風にして、特製のおまけなどをつけて高価な値段で売ることもできる。特定のスポンサー付きで、限定期間の特価バーゲンもありだ。つまり、こうなると「本」という定義自体が伸縮自在なわけで、それもデジタル技術によって可能になったことのひとつだろう。

 ここ数年、電子書籍関係の会議に連続して参加しているのだが、電子書籍に対するアメリカの出版社の姿勢はその間に180度変わった。今や躊躇することなく壮大な大実験に乗り出しているという様相である。どう本が再定義されるかも興味深いが、個人読者としては本が安くなったことが何よりも嬉しい。

プロフィール

瀧口範子

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、政治、文化、社会一般に関する記事を新聞、雑誌に幅広く寄稿する。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか? 世界一IQが高い町の「壁なし」思考習慣』、『行動主義: レム・コールハース ドキュメント』『にほんの建築家: 伊東豊雄観察記』、訳書に『ソフトウェアの達人たち: 認知科学からのアプローチ(テリー・ウィノグラード編著)』などがある。

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