民主主義を学ぶ
民主主義がその本来の真価を発揮するには、教育が不可欠だ。教育はもちろん学校教育に限らない。家庭教育、社会教育、そして何より自己教育を含み、また「教育」という型にはまったものに限られない。要は、民主主義のための実質的に意味ある学びのことだ。果たしてそれはどのような学びだろうか。筆者自身その学びを継続しようと考える。
民主主義と言えるためには、あるいは民主主義社会が成立するためには、少なくとも以下の条件が不可欠だ。
①民主主義社会は尊厳ある自由な個人によって構成される。その尊厳と自由は隣人のそれらと比べて大きくもなければ小さくもない。
②民主主義は公正な普通選挙によって代表を選ぶ。
③民主主義社会は治者と被治者の情報共有(知る権利の拡充)が高度なレベルで充足されている。
④民主主義社会は権力者の言動に対するファクトチェックが十分になされている。
⑤民主主義社会には、自由に意見交換できる広場(「アゴラ」)が存在する。
⑥民主主義社会の司法は程よく独立が保たれている。
これは理想論ではない。不可欠な要素だ。選挙さえあれば民主主義というものでもない。選挙が終わったところから始まる民主主義がある。熟議の民主主義だ。
また、そんなありきたりのことは言われなくとも分かっているという方に申し上げたい、民主主義は極めて脆弱な制度でありそれを支えるためには、共有すべき認識を不断に確認していくことが重要である、と。
情報は、為政者が市民に与える恩恵ではない。政府が保有する情報は国民の共有財産だ。可能な限り共有されなければならない。そうでなければ熟議の民主主義は成立しない。
前段にいう情報とは真実の情報でなければならない。この当たり前のことが当たり前でなくなったのは、ポスト・トゥルース(post truth)という個人的心理の集合が作り出した時代状況の影響だ。
世の中に誤情報、偽情報が溢れかえる。この2つの違いは、ここでは意図の有無に求めておく。誤情報、偽情報の弊害はそれが真実と異なるからだが、それにとどまらない。もっと恐ろしいのは、真実の情報すら不確かにしてしまう集団心理を生み出してしまうことにある。文字通り、ポスト・トゥルースの社会状況を作り出してしまう。ファクトチェックはその悪しき状況を破壊する斧だ。
民主主義の熟議は、より良い結論を導き出せることにある。熟議の民主主義に不可欠な現代のアゴラは、どこにあるのだろうか。まず、アゴラでの発言は自由でなければならない。しかし、嘘八百を並べ立てる自由があるわけではない。ファクトチェックに耐えうるものでなければならない。
一見民主主義と関係なさそうな司法の独立がなぜ必須かと言えば、それが人権を守り、権力の腐敗を防ぐ役割を制度上担うからだ。