民主主義社会の分断

分断の原因には諸説ある。文字通りの経済格差、それを利用する政治家の政治戦略、メディアによる刷り込みなど、さまざまだ。政治的分断のみならず、社会的分断はさらに根深いという見立てもあるだろう。

民主主義を支える視点から見た場合、分断は民主主義の何らかの結論や到達点ではなく、民主主義の出発点だという共通認識を持つべきだ。人が尊厳を持ち自由であるならば、そこに生まれる差異(差別ではない)を容認しあうことは基底的な制度的要請だ。そこから出発するしかないが、だからと言って社会的分断に向けて一目散に走りだす必要もない。むしろ、そうならないためには何が必要かを議論する場を提供してくれるのも民主主義だ。民主主義が社会統合の利器と言われる所以はそこにある。

政治的指導者の責任は避けられないが、それ以上にそのような人を選んだ私たち選挙民の責任も大きい。

いずれにせよ、選んだのは誰あろう選挙民だし、結果は全て選挙民に跳ね返る。また、跳ね返ってしかるべきだ。壊れかけであろうとも、いや、既に壊れていようとも、残念ながらそれも1つの民主主義だ。

分断は、市民、国民を引き裂いているように見える。それは好ましい状態ではない。色々な意味合いにおいて、市民間の分断は解消されるべきだ。色々なレベルでの統合が目指されるべきだ。もちろんここに言う「統合」とは上からの強制的あるいは半強制的な統制のことを言っているのではない。平たく言えば緩やかなまとまりのようなものだ。平等な選挙権による選挙はこのまとまりを助けてくれるだろう。私が、そして私たちが決めたことだという認識を共有することが肝要だ。

これまで筆者は、分断を市民間、人々の間の分断を念頭に置いてきた。それが政治用語、社会用語としての使用法に一番なじんでいる。しかし、よくよく考えてみると、分断の最たるものは為政者と市民との間の分断ではなかろうか。この分断に慣らされてしまい、もはや分断とすら感じられなくなっているのではなかろうか。

政治的指導者は、主権者たる国民によって選ばれる。だが、選ばれた政治的指導者は国民の事など全く顧慮していない(ように見える)。「投票日だけの主権者」という揶揄も頷ける。ならば、投票日以外においても主権者であることを示すことが、民主主義社会統合の第一歩ということになるだろう。

民主主義社会の水平志向と垂直志向
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