コラム

宮益坂のスナックとゆういちさんと西部劇『男の出発』

2024年05月25日(土)12時38分

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<アメリカン・ニューシネマの香りがする西部劇『男の出発』は『明日に向かって撃て!』よりずっと秀作だ。宮益坂のでバイトをしていた20代の頃、僕が一番好きだった映画でもある>

20代の中盤から後半、渋谷の宮益坂を5分ほど上ったところにあるスナックでバイトしていた時期がある。店名は「Jump」。学生時代にバイトしていた小さなCM制作会社で経理担当だった「たっちゃん」が、会社を辞めて始めた店だ。

10歳ほど年上のたっちゃんは、大学を卒業しても就職せずに芝居や自主制作映画などにかまけていた僕を何かと気にかけてくれていて、不定期でいいからこの店でバイトしなさいと言ってくれたのだ。

ほとんど常連ばかりだったけれど、Jumpはそれなりに繁盛していた。カラオケなどない。BGMはモダンジャズ。たっちゃんが家から持ってきたオスカー・ピーターソンやヘレン・メリルのレコードをかけていた。基本的にたっちゃんはカウンターで調理担当。ホールは僕ともう1人、「ゆういちさん」で回していた。






ゆういちさんは背が高い。そしてハンサム。20代の頃はモデルをやっていた。彼の写真が掲載されたファッション誌を見せられたことがある。なぜモデルを辞めたのか、その理由を聞いたことはない。

お客さんが途切れた時間帯、カウンターに並んで座っていたゆういちさんから、「達也の一番好きな映画は?」と聞かれたことがある。数秒だけ考えた。好きな映画はたくさんあるけれど、一番好きな映画はそのときによって違う。でもこのとき僕は「『男の出発』です」と答え、ゆういちさんは声を上げて喜んだ。「その映画のタイトルを口にした人は初めてだよ。うれしいなあ。俺も一番好きな映画なんだ」

タイトルの「出発」は「たびだち」と読ませる。カウボーイに憧れていた少年ベンは、2000頭の牛を運ぶカウボーイたちの旅に初めて加わった。母親に見送られてすぐに、襲撃してきた牛泥棒の男たちと銃撃戦が起きる。泥棒は皆殺しにしたが、こちらも3人が死んだ。ベンは物陰で震えていた。殺すことも殺されることも怖い。でもカウボーイたちは殺すことも死ぬことも躊躇しない。みな粗野で下品。これが大人になることなのか。ベンは悩む。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国人民銀、1年物MLF金利据え置き 差し引き55

ビジネス

中国利下げ、国内外の制約に直面=人民銀系紙

ワールド

来日のNZ首相、経由地で専用機故障 民間機で移動

ワールド

原油先物は小幅安、米消費者需要の後退や中国指標待ち
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:姿なき侵略者 中国
特集:姿なき侵略者 中国
2024年6月18日号(6/11発売)

アメリカの「裏庭」カリブ海のリゾート地やニューヨークで影響力工作を拡大する中国の深謀遠慮

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    この「自爆ドローンでロシア軍撃破の瞬間」映像が「珍しい」とされる理由

  • 2

    FRBの利下げ開始は後ずれしない~円安局面は終焉へ~

  • 3

    顔も服も「若かりし頃のマドンナ」そのもの...マドンナの娘ローデス・レオン、驚きのボディコン姿

  • 4

    ニシキヘビの体内に行方不明の女性...「腹を切開する…

  • 5

    米モデル、娘との水着ツーショット写真が「性的すぎ…

  • 6

    水上スキーに巨大サメが繰り返し「体当たり」の恐怖…

  • 7

    森に潜んだロシア部隊を発見、HIMARS精密攻撃で大爆…

  • 8

    なぜ日本語は漢字を捨てなかったのか?...『万葉集』…

  • 9

    サメに脚をかまれた16歳少年の痛々しい傷跡...素手で…

  • 10

    メーガン妃「ご愛用ブランド」がイギリス王室で愛さ…

  • 1

    ニシキヘビの体内に行方不明の女性...「腹を切開するシーン」が公開される インドネシア

  • 2

    接近戦で「蜂の巣状態」に...ブラッドレー歩兵戦闘車の猛攻で、ロシア兵が装甲車から「転げ落ちる」瞬間

  • 3

    早期定年を迎える自衛官「まだまだやれると思っていた...」55歳退官で年収750万円が200万円に激減の現実

  • 4

    米フロリダ州で「サメの襲撃が相次ぎ」15歳少女ら3名…

  • 5

    毎日1分間「体幹をしぼるだけ」で、脂肪を燃やして「…

  • 6

    カカオに新たな可能性、血糖値の上昇を抑える「チョ…

  • 7

    この「自爆ドローンでロシア軍撃破の瞬間」映像が「…

  • 8

    「クマvsワニ」を川で激撮...衝撃の対決シーンも一瞬…

  • 9

    認知症の予防や脳の老化防止に効果的な食材は何か...…

  • 10

    堅い「甲羅」がご自慢のロシア亀戦車...兵士の「うっ…

  • 1

    ラスベガスで目撃された「宇宙人」の正体とは? 驚愕の映像が話題に

  • 2

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 3

    ニシキヘビの体内に行方不明の女性...「腹を切開するシーン」が公開される インドネシア

  • 4

    ウクライナ水上ドローンが、ヘリからの機銃掃射を「…

  • 5

    「世界最年少の王妃」ブータンのジェツン・ペマ王妃が…

  • 6

    接近戦で「蜂の巣状態」に...ブラッドレー歩兵戦闘車…

  • 7

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 8

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃の「マタニティ姿」が美しす…

  • 9

    早期定年を迎える自衛官「まだまだやれると思ってい…

  • 10

    ロシアの「亀戦車」、次々と地雷を踏んで「連続爆発…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story