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「サイエンス少年ではなかった」 テニス漬けの学生時代、物理の道選んだのは「変な先生」の影響──野村泰紀の人生史

茜 いつ頃から研究者を志されたんですか?
野村 「できれば」という気持ちはずっとあったと思いますよ。
茜 先ほど話題になった「ヒッグス粒子が複合粒子であった場合の理論」とか「大統一理論に余剰次元を導入」などの論文は20代です。とても早くから研究者として成果を出されていますよね。
最初に分野として素粒子物理を選んだというのは、師事したい先生がいらしたのですか?
野村 そうです。僕は要所要所で人に恵まれました。
4年生になると、やっぱり自分の将来を考えなくてはならなくなるわけです。大学院に行くというのは早めに決めていたけれど、日本では何々先生の研究室に所属を希望するというところまで決めなくてはならない。
大学4年生で将来の進路にもつながるゼミがあったんですが、そこで素粒子論の柳田勉先生に出会いました。非常に熱意のある先生で、僕は柳田先生が東北大から東大に移ってきて1年目の学生でした。そこで素粒子論に魅せられて、大学院でもテーマにしました。
茜 そこから若くして(カリフォルニア大の)バークレーに行かれたのはなぜですか。
野村 僕は博士号を日本で取っているのですが、僕の年から物理学科で博士論文が早く出せるというのが始まったんです。
茜 そうなんですね。ご経歴を見ていたら大学院が4年で終わっていたので「あれ?」と思いました。
野村 それでアメリカのポスドクにいくつか出して、通ったので26歳で行きました。
物理一辺倒のアメリカ生活
茜 アメリカの研究環境は居心地が良かったですか。日本に戻りたいと感じることはなかったですか。
野村 行った後数年は、環境とかを考えてる暇はなかったですね。もう起きている時はずっと物理をやっていましたから。
茜 理論物理屋は、紙とペンだけあればずっと考えてるみたいなイメージがあります。
野村 そうですね、あと黒板です。やっぱりアイデアは人と話す時に出るので。
当時の僕はポスドクなので、日中は余剰次元の大統一理論を一緒にやったローレンス・ホール教授と議論したり、彼の学生と話したりしていました。新しい論文を「これ読んだ?」とか内容の検討をするんです。
その時「いやでも、結果はそんな風にはならないんじゃないかな?」なんて誰かが言うと、その場で黒板の上で計算したりします。さらに「これは本当に合っているのかな」なんてことになると、ひとまず解散になります。それで大体翌日には、全員が自分の結果を持ってきます。
茜 ああ、それぞれの研究者が、一晩ひたすら考え続けるんですね。
野村 日本では共同研究者を決めてその中でやりますが、アメリカではもっと多くの人たちで議論するので、翌日、自分の結果を持ってこない人、傍観しているだけの人は脱落します。
茜 研究者としての生き残り競争がすごいんですね。
野村 もう毎日がそれの繰り返しです。だから、その頃は何も覚えてないぐらい物理しかやっていないんです。
茜 「そりゃあ、20代で(今なお評価されている業績の)余剰次元を使った大統一理論も出せるわ」という感じですね。
野村 運もあるし、物理学には流行があるというのもあるのですが、いい仕事ができたと思います。
ちなみにアメリカ1年目の時に、フェルミ研究所からセミナーに来てくれと誘われて行ったら、「実はジョブがあるから応募してみないか」と言われたんです。意味もよく分からなかったんですけれど、出したら通っちゃったのでスタッフポジションで所属しました。
でも、大学じゃないので大学院生はいないし、良くも悪くもプロしかいないんですよ。そうすると、学生が馬鹿な質問をしてきたから基本的なことから考える、というようなことがないんです。
これまでに名前を挙げたような研究者は皆大体、大学にいるんですよ。「アウト・オブ・ザ・ボックス(out of the box thinking:既成概念に囚われない考え方で解決策をデザインすること)」と言うのですけれど、すぐに解決できないときはちょっと違う分野にフラフラしてみたりもするんですね。
研究所では、そういうことはあまり許されません。素粒子物理学の研究所なので、素粒子物理学の成果を出していないと「何やってんねん」って感じになるんです。だから僕は「大学のほうが自分のスタイルに向いてるな」と思って、次の年には大学に応募して、ポジションをもらえたいくつかの中からバークレーを選びました。






