コラム

カイコからコロナワクチンも? 栄枯盛衰の「シルク岡谷」で伝統産業の未来に触れる

2020年07月10日(金)16時10分

◆真実は多角的な視点の先に

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今では車で楽に行き来できる塩尻峠だが、かつての工女さんたちが歩いて越えた。これも一つのシルクロード

宮坂製糸所を後にし、町外れの塩尻峠を目指す。その先は松本盆地。いよいよ諏訪地域ともお別れだ。この塩尻峠、地元ではもっぱら塩嶺(えんれい)峠と呼ばれているが、『あゝ野麦峠』の飛騨の工女さんたちが、岡谷を目指して最後の力を振り絞って越えた所だ。現代では国道20号が通り、楽に車で越えられるが、諏訪湖と八ヶ岳、南アルプスを一望できる抜群の眺望と急カーブの連続が、かつては難所だったことを示している。岡谷・諏訪の製糸業を支えたという意味で、これも一つのシルクロードである。

一方、工女さんたちが時に命を落とすこともあったという野麦峠は、乗鞍岳を下った長野・岐阜県境にある。現在は県道が通るものの、非常に険しい道だ。20年以上前になるが、僕は新聞社の高山支局に3年ほど勤務していたことがあって、飛騨から東京の実家へ車で帰るルートの一つが野麦峠を越えて木曽を通って中央道・塩尻インターへ抜けるコースだった。当時は、まだ飛騨の平湯と信州の上高地入口を結ぶ安房トンネルが開通しておらず、東京への近道は峠越えで松本・塩尻方面へ抜けるルートだった。最短は現在のトンネルの上を通る安房峠越えだが、冬季は閉鎖される。それに、安房峠は連休やお盆休みには大渋滞となる。それを避けて使ったのが野麦峠であった。しかし、野麦峠越えのルートは車がやっとすれ違えるようなくねくね道のいわゆる「酷道」で、運転に慣れていない人には絶対にオススメできない。『あゝ野麦峠』は、そんな道を真冬に年端も行かぬ少女たちが歩いて越えたという物語なのだから、"哀史"と表現されて当然ではある。

そうした命がけの往来とともに"哀史"となっているのが、過酷だったとされる工女さんたちの労働環境である。岡谷市・岡谷蚕糸博物館発行の『シルク岡谷 製糸業の歴史』でも、「明治初年の製糸工場は、生産効率を上げるということが主体で、工女さんの福利・厚生、教養の向上などはあまり考えていませんでした。就業時間は朝6時から夜6時までと長く、(中略)明治末になると職工の長時間労働が問題となり始めました」と、今で言うブラック労働の問題が指摘されている。ただし、大正5年の工場法成立を契機に、労働時間の短縮や休日の制定、福利厚生の拡充などが図られ、工場内で工女さん向けの補習授業なども行われるようになったという。

工女さんは13歳〜18歳くらいが中心で、小学校を出てすぐに働き始め、嫁入りの費用を稼いでやめていく場合が多かったという。ベテランになれば年収100円(当時「家が建つ」と言われた額)の「100円工女」になれたというが、飛騨の元工女への聞き取り調査によれば、初年はその10分の1の10円、4、5年目で50円、10年近く働いて100円、といった具合だったようだ。女工哀史で強調される「低賃金」「劣悪な食事」といった過酷さと実態は必ずしも一致せず、相当に厳しかった当時の貧農の暮らしに比べれば、「製糸工場の仕事は家の仕事よりは楽だった」という元工女の証言も多く残されている。

とはいえ、現代の常識に照らせば、日本の近代化は少女たちの過重労働に支えられていたという誹りは免れないだろう。明治時代の製糸業の現場に近代的な労働問題の端緒があったこと、そして、個別の例として悲惨な「哀史」があったこと、これらは事実である。しかし、特に歴史上の出来事については、時代やイデオロギーを超えた多角的な視点が不可欠である。現代の常識を時代背景が異なる出来事に当てはめたり、特定の思想に引き寄せて過去を睥睨(へいげい)すると、恣意的な"真実"が独り歩きしてしまう。

◆諏訪を後にして松本へ

塩尻峠の頂上につくと、国道をそれる旧道があった。迷わずそちらに進む。明治天皇の地方巡幸の際に開いた道らしく、古びた石垣に囲まれた道だ。周囲は自然公園として整備されている。30分ほど歩くと、旧中山道と交差する頂に、明治天皇の野立(休憩)所の石碑があった。明治天皇は合計97回もの地方巡幸(視察)をしたというが、山梨県内を歩いていた時も、笹子峠などの難所や交通の要所に、こうした明治天皇の足跡を示す石碑が見られた。明治天皇は、全て自分の足で歩いたわけではなかろう(輿に乗って移動することが多かったらしい)が、「歩き旅」の大先人である。これから先、どこを歩いても明治天皇の足跡に触れることになるだろう。

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諏訪と松本の境界を示す浅間社。右奥が明治天皇の野立所の石碑

野立所の石碑の脇には、浅間(せんげん)社という小さな祠(ほこら)があった。これが江戸時代の諏訪領と松本領の境界だったという。即ち、僕らの歩き旅の5回にまたがる「諏訪編」も、ここで終了というわけだ。ここからは「松本編」。まずは松本城を目指してひた歩くことになる。でもちょっとその前に、諏訪大社の歴史に触れて「日本の中心は諏訪にあり」と認定した手前、きちっと諏訪地域に敬意を表しておくべきだろう。おあつらえ向きに野立所の先に展望台があったので、そこから諏訪湖と諏訪盆地を一望して別れを惜しんだ。

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展望台から見えた諏訪盆地

そして、旧中山道の細道を下って松本領の最初の町、塩尻へ。ここは、第10回で通った山梨県の勝沼と並ぶワインの一大産地である。中山道から国道にぶつかると、おあつらえ向きにワインの試飲ができるお店があったので、休憩がてら立ち寄った。そこで酒に弱い僕は、若くてフルーティーで飲みやすいワインに飲まれてしまった。

赤い顔のまま、ぶどう畑と麦畑と水田地帯を抜け、夕暮れの塩尻宿へ。しかし、一気に塩尻駅へ進もうかというところで梅雨空が広がり、強い雨に降られてしまった。仕方なく、少し引き返す形で最寄りのみどり湖駅にて終了。次回は仕切り直して塩尻宿に戻り、塩尻駅経由で松本方面を目指す。

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塩尻はワインの里。中心部を歩くのは次回へ持ち越しとなった

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今回歩いたコース:YAMAP活動日記

今回の行程:下諏訪駅 → みどり湖駅(https://yamap.com/activities/6516569)※リンク先に沿道で撮影した全写真・詳細地図あり
・歩行距離=16.4km
・歩行時間=8時間44分
・上り/下り=376m/378m

プロフィール

内村コースケ

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。外交官だった父の転勤で少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒業後、中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験。かねてから希望していたカメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「書けて撮れる」フォトジャーナリストとして、海外ニュース、帰国子女教育、地方移住、ペット・動物愛護問題などをテーマに執筆・撮影活動をしている。日本写真家協会(JPS)会員

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