目の前の現実

少し前のことになるが、わが目を疑った。わが国初の女性総理大臣である高市早苗氏が、アメリカのトランプ大統領にぶら下がるように愛想を振りまいていた。場所は銀座でも六本木でもない、ましてや新宿のトーヨコでもない。れっきとした外交の場での出来事だ。見るに堪えなかった。そうだとしても、目の前の現実を直視せざるを得ない。

直視するうちに、筆者は憤りのみならず残念に思う気持ちに襲われた。それは高市氏がほかのどの国でもない、私たちの国の総理大臣だからだ。紆余曲折はあるが私たちが選んだ代表だからだ。つまり、わが国が曲がりなりにも民主主義国家だからだ。

台湾有事に関する高市発言とその後の言動にも、小首をかしげたくなる。中国政府の反発を招いたのち、高市氏は従来の政府見解と変化ない旨を繰り返した。ならば、そもそも発言に慎重でなければならないはずだ。

政治的指導者が景気の良い言葉を発して火をつければ、今度はその火を消せなくなってしまう。昭和史の教訓だ。

財政政策も気にかかる。新自由主義のもたらした経済的格差に対して基本的にどういう立ち位置に立つのかが明らかでない。サナエノミクスがアベノミクスを継承するなら、格差が作り出した目の前の現実に対し、小手先の弥縫策ではなく抜本的なスタンスを示してほしい。

政治的指導者には国民を説得し納得させる義務がある。それを説明責任という。政治的指導者がその責任を果たすことこそが民主主義だ。どのような政策をとろうと、痛みを伴うことは避けがたい。その痛みの必要性を訴えることこそが政治家の責務のはずだ。

断っておくが、高市氏を個人的に論難することを目的に本稿をしたためているわけではない。筆者が考える民主主義論の中に高市氏を座らせてみると、どう見えるかという話であり、それは、民主主義のために今こそ必要な議論だと考えるからだ。

高市氏に限らず、為政者は最終的に選挙(の組み合わせ)で決めざるを得ない。それが民主主義だ。民主主義とは数の暴力かと問う前に、何であれ権力は暴力的だ、という見方にはそれなりの説得力がある。この世の中には(筆者も含めて)様々な少数派がいるが、彼らにしてみれば、確かに権力とは暴力的で腐敗していると映るだろう。この暴力と腐敗をどのように排除するか(あるいは制御するか)によって、民主主義の真価が問われる。

民主主義に対する嫌悪
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