最新記事

BOOKS

「虐待が脳を変えてしまう」脳科学者からの目を背けたくなるメッセージ

2019年3月22日(金)10時35分
印南敦史(作家、書評家)

そんな著者は2003年、小児精神医学を研究するためにアメリカへ留学している。マサチューセッツ州ボストン郊外にある、マクリーン病院の発達生物学的精神科学教室。同病院はハーバード大学の関連病院であり、全米で有数の質の高さを誇る精神科の単科病院だそうだ。

多くのセレブリティが入院することでも有名で、映画『ビューティフル・マインド』のモデルであり、ゲーム理論でノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュ博士も一時期入院していた。つまり、研究にはうってつけの環境だったわけだ。

しかし、そこを一歩出ると、待っていたのは虐待大国と揶揄されるアメリカの厳しい現実だった。日本ではまだ虐待がクローズアップされたばかりの時期だったこともあり、著者は大きな衝撃を受ける。


 マクリーン病院でのわたしのボスは、マーチン・H・タイチャーであった。わたしの永遠の師匠の一人である。タイチャーは、小児神経科医から精神科医に転身し、虐待が脳に与える影響を研究していた。面接で初めて先生に会った時、先生はこう言った。「子どもの時に厳しい虐待を受けると脳の一部がうまく発達できなくなってしまう。そういった脳の傷を負ってしまった子どもたちは、大人になってからも精神的なトラブルで悲惨な人生を背負うことになる。」この言葉が、わたしのその後の仕事人生を変えることになった。(「はじめに――児童虐待との関わり」より)

虐待が脳を変えてしまう――。当然ながら、それは目を背けたくなる事実である。しかし著者は、それを多くの人に伝え、虐待の恐ろしさを知ってもらうことこそが使命だと考えているのだという。

なぜなら虐待を未然に防ぎ、影響を最小限にしていくためには、医療や福祉のみならず、たくさんの人がお互いに支え合わなければならないからだ。そこで著者は、虐待の種類や歴史と現状、脳の役割と発達などについて解説し、やがて虐待と脳の関係という核心と向き合っていくのである。

ところで本書において著者は、心理学者たちの見解に対して疑問を投げかけている。心理学者たちは最近まで、児童虐待の被害者は社会心理的発達が抑制され、精神防御システムが肥大するため、大人になってから自己敗北感を抱きやすいと考えていたという。

端的にいえば、精神的・社会的に十分に発達しないまま「傷ついた子ども」に成長してしまうということ。だから心理学者たちは、その傷ついた「ソフトウェア」は、治療すれば再プログラムできると考えたのだ。

トラウマを引き起こす3つの要因(生物学的要因・心理学的要因・社会的要因)の中の、心理学的要因と社会的要因を修復すればよいということになる。周囲の環境(社会的環境)を整え、どう物事を捉え考えるかという認知の方法(心理学的要因)を改善すれば完治するという発想だ。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

米国株式市場=ナスダック最高値、エヌビディア決算控

ビジネス

NY外為市場=ドル小幅高、FRB当局者は利下げに慎

ワールド

米、ウクライナ軍事訓練員派遣の予定ない=軍制服組ト

ワールド

ICC、ネタニヤフ氏とハマス幹部の逮捕状請求 米な
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:スマホ・アプリ健康術
特集:スマホ・アプリ健康術
2024年5月28日号(5/21発売)

健康長寿のカギはスマホとスマートウォッチにあり。アプリで食事・運動・体調を管理する方法

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    娘が「バイクで連れ去られる」動画を見て、父親は気を失った...家族が語ったハマスによる「拉致」被害

  • 3

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の「ロイヤル大変貌」が話題に

  • 4

    米誌映画担当、今年一番気に入った映画のシーンは『…

  • 5

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 6

    中国の文化人・エリート層が「自由と文化」を求め日…

  • 7

    ベトナム「植民地解放」70年を鮮やかな民族衣装で祝…

  • 8

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 9

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 10

    「親ロシア派」フィツォ首相の銃撃犯は「親ロシア派…

  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 5

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 6

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 7

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の…

  • 8

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 9

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 10

    娘が「バイクで連れ去られる」動画を見て、父親は気…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された─…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中