コラム

数学者ジョン・ナッシュ夫妻の訃報

2015年05月26日(火)10時49分

 そのアーベル賞は先週ノルウェーで授賞式があり、ナッシュ氏と、NYUのルイス・ニーレンバーグ氏が受賞したのでした。授賞式の後、5月23日の土曜日の昼のフライトで、ナッシュ夫妻とニーレンバーグ氏は、ニュージャージーのニューアーク空港に帰国したのです。

 その際に、報道によればナッシュ夫妻は「その日になって当初予定より5時間早いフライト」に変更をしたそうで、その変更については、予約してあった「ハイヤー会社にも連絡した」そうです。ところが、空港の出迎えを5時間前に変更することが確認できないまま、飛行機に乗り(おそらくオスロ=ニューアークのUA直行便)で戻ってきたのでしょう。ニュージャージーに戻ってみると、どうもハイヤーの変更はできていなかったようです。そこで仕方なく「イエローキャブ」の「タクシー」に乗ったことが運命の分かれ道になってしまいました。

 その運転手は、ほんの2週間前までは「アイスクリームの屋台」をやっていた男性で、新しく個人タクシーの会社を立ち上げたばかりだというのです。そのタクシーは、私の家のすぐ近くにある高速道路の出口近辺で、追い越しに失敗してスリップ事故を起こし、ガードレールに激突してしまったのでした。

 おそらくはシートベルトをしていなかった夫妻は、ショックで車外に投げ出されたようで、ほぼ即死状態だったそうです。運転手は負傷して病院に収容され、生命の危険はないということですが、報道によれば「そんな著名人を乗せていたとは知らなかった」と言っているそうです。

 いずれにしても、この週末は「メモリアルデー」の3連休だったのですが、私の住むプリンストン、そして大学のコミュニティーはナッシュ夫妻の訃報に沈んでいます。駅の近くにあるナッシュ夫妻の自宅前を通ったところ、主のいなくなった質素な家の玄関にはいくつかの花束が手向けられていました。

 一部のメディアでは、フライトを変更したことでハイヤーの予約が使えなくなり、タクシーを選択したことの結果が「全てを失うこと」になったことから、人生の最後にあたってはゲーム理論が生かされなかった、などという皮肉を言う人もあるようです。

 ですが数奇な運命を辿ったこの夫婦が、最後は高速道路での事故、しかも即死に近いかたちで一緒に亡くなった、それもノルウェーでアーベル賞を授賞された帰途だったというのは、ある種幸福なエンディングだったという考え方もできるかもしれません。ナッシュ氏は86歳、MIT時代の教え子であったアリシア夫人は82歳でした。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

岸田首相、「グローバルサウスと連携」 外遊の成果強

ビジネス

アングル:閑古鳥鳴く香港の商店、観光客減と本土への

ビジネス

アングル:中国減速、高級大手は内製化 岐路に立つイ

ワールド

米、原発燃料で「脱ロシア依存」 国内生産体制整備へ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 2

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 3

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を受け、炎上・爆発するロシア軍T-90M戦車...映像を公開

  • 4

    こ、この顔は...コートニー・カーダシアンの息子、元…

  • 5

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 6

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 7

    ロシア軍「Mi8ヘリコプター」にウクライナ軍HIMARSが…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    サプリ常用は要注意、健康的な睡眠を助ける「就寝前…

  • 10

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる4択クイズ

  • 4

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 5

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 6

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 7

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 10

    メーガン妃の「限定いちごジャム」を贈られた「問題…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story