カメラの前で殺害を再現させるという手法は、例えばクメール・ルージュの虐殺を一貫して撮り続けるリティ・パンの『S21』などの前例があり、決して目新しくはない。でも『S21』の被写体となった収容所の看守や虐殺のサバイバーたちは、みな苦悶していた。

ところが本作の加害者たちは、苦悶どころか嬉々として演じている。実名で顔をさらし、武勇伝のように自らの殺害体験を語り、どのように殺したかを再現する。逸脱している。被写体となった加害者たちも。そしてこの映画も。

被害者や遺族の思いを踏みにじる映画と糾弾されて当然だ。だからこそ加害者たちは、自らの記憶を演出する過程で軋(きし)んでいるはずだと思いたい。

彼らは怪物ではない。日々の仕事にいそしみ(共犯者には現職の国会議員もいる)、家族を持つ普通の男たちだ。その「普通」が恐ろしい。国家が後押しして社会が称揚すれば、暴力はあっさりと正義に転化する。

良心の呵責はあったのか