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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
映画『風立ちぬ』のヒロインが「菜穂子」である理由
宮崎駿氏の最新作『風立ちぬ』を見ました(以降は、ストーリー上の「ネタバレ」に触れている箇所もありますので、気になる方は映画を先にご覧になることをお勧めします)。
まず、零式戦闘機(通称「零戦」)の設計者である堀越二郎については、飛行機への思い一筋に生きた姿がアニメ一筋に生きた宮崎氏自身の生き方と重なって説得力がありました。戦争の問題については、控えめな表現ですが「国を滅ぼしてしまった」「(零戦は)一機も帰って来なかった」という台詞が全てを語っているように思います。
色々な議論が可能と思います。ですが、亡国に至った戦争は否定するが、資源の物量を技術力で補って究極の抑止力を目指した零戦開発の努力までは否定しないという宮崎氏の立場について、私は納得させられたということは申し上げておこうと思います。
ところで、この作品ですが、その堀越二郎の「零戦開発奮闘記」というストーリーに、堀辰雄の小説『風立ちぬ』が重ねられているというのは、あくまで宮崎氏のファンタジーであり、それ以上でも以下でもないと思います。ですが、タイトルにもあるように、堀辰雄の小説『風立ちぬ』が原作の1つであるのなら、1つの疑問が避けて通れません。
それは、どうしてヒロインは「菜穂子」なのか、という疑問です。原作が『風立ちぬ』であるならば、ヒロインの名前は「節子」でなくてはならないからです。今日はこの問題について、私なりの解釈をお話しようと思います。
堀辰雄には『菜穂子』という作品が別にあります。最晩年の作品で、中編小説の引き締まった構成を持ちながら長編小説への発展性も感じさせる傑作です。堀辰雄の最高傑作というだけでなく、おそらくは20世紀前半の日本文学の中での最高傑作だと言っても過言ではないと思います。
宮崎氏は、『風立ちぬ』だけでなく、その『菜穂子』の要素も加えてこのヒロインを造形している、それが「節子」ではなく「菜穂子」という名前が与えられた理由であると思います。さて、その小説中の「菜穂子」ですが、堀氏自身が闘病していたこともあり、また実際に婚約者をその病気で失ったという経験もあることから、この「菜穂子」も肺結核と闘病する女性として描かれています。
ですが、小説『風立ちぬ』の節子が、「婚約者である私」に愛されつつ若くしてこの世を去る「純愛と薄幸」のキャラクターに単純化されているのと比較すると、小説『菜穂子』の主人公は全く違う複雑性と深み、そして「女性としての強さ」を与えられているのです。
この小説の「菜穂子」は既婚女性です。旧姓は三村ですが、結婚して黒川菜穂子という名前になっています。そして肺結核に感染して、映画でも出てきた八ヶ岳山麓の富士見高原病院(サナトリウム)に入院します。夫の黒川氏という人物は、菜穂子のことを愛しており、菜穂子もそのことは分かっているのですが、嫁姑の関係がうまくいかない中で夫婦仲も冷えているという設定です。
ちなみに、嫁姑がどうとか妻の入院がどうとかいうと、まるでドロドロした愛憎劇のようにも思えますが、堀辰雄の筆は決して下品にならず、上品すぎることもなく、鋭く洗練されていて見事だと思います。ですが、小説『風立ちぬ』のシンプルな世界とは相当に違うわけです。いずれにしても、人生における困難を抱え込んだ中で、菜穂子は高原で療養しているわけですが、そこに1人の男性が訪ねてきます。それは、昔、長野県の追分の高原で出会った幼なじみの都築明という人物でした。
この都築という男は、おそらくは若き日の堀辰雄自身、つまり小説『風立ちぬ』や『美しい村』に出てくる男性のようなキャラクターとして設定されています。建築事務所で設計士をしており、その点でおそらくは詩人の立原道造がモデルという説がありますが、いかにも「堀辰雄作品に出てきそうな」線の細いキャラです。山奥の療養所まで都築は菜穂子を訪ねて来るのですが、もしかしたら「淡い何か」が起きそうな気配はあるものの、結局は何もないまま都築は去って行きます。
そこで菜穂子は都築への失望感も作用する中で、自分の夫である黒川に無性に会いたくなり、勝手に療養所を抜け出して中央本線に乗って新宿に出てきてしまうのです。では、夫との愛情が劇的に復活するのかというとそうでもないわけで、人生の苦しみから救済されるということにはならないのですが、この「勝手に抜け出して中央本線で新宿に帰ってくる」という菜穂子の行動で、堀辰雄は新しい時代の女性のエネルギーであるとか、苦悩を背負う「個の輝き」の表現に成功しているように思うのです。
宮崎氏は、映画のクライマックスでこの「菜穂子の療養所抜け出し」というエピソードを堂々と取り込んでいます。その毅然とした姿は「菜穂子」であって「節子」ではないのです。これがヒロインの名前の背景にある理由だと思います。そして、この映画のファンになった方々には、原作として堀辰雄作品に触れる際に『風立ちぬ』だけでなく、『菜穂子』を読まれることを強くお薦めします。
映画の方の「菜穂子」は、勝手に療養所から抜け出したというエピソードの後に、極めて美しい幸福な時間を与えられています。これは勿論、宮崎氏のファンタジーなのですが、薄幸であった堀辰雄作品のヒロインたち、例えば「節子」とか「菜穂子」といった女性たちへの宮崎氏なりの愛情なのだと思います。また、映画の主人公である堀越二郎の造形には、都築明的なものも純化されて入っているように思われました。
ちなみに、黒川という名前は映画の中では主人公を公私ともに支える人情味あふれる「上司夫妻」の名前として出てきますが、この名前は小説では菜穂子の夫の名前であり、不器用なこの小説中の男性にも宮崎氏はある種の共感を寄せているのかもしれません。
話が前後しますが、冒頭で描かれる関東大震災のシーンについては、少なくとも堀辰雄は被災して幼くして母親を失っているわけです。福永武彦先生や中村真一郎先生の研究によれば、そのことが堀文学のある種の原点になっているのですが、映画中で主人公の周囲がとりあえず震災で助かるという表現には、宮崎氏の堀文学への優しい視点があるように思います。いずれにしても、私はこの『風立ちぬ』で宮崎氏は堀辰雄文学の本質にかなり迫っているように思います。深い感慨を覚えました。
ちなみに映画に出てくる軽井沢の「草軽ホテル」というのは「三笠ホテル」のことだと思います。昔この辺を草軽電鉄と言う軽便鉄道が通っていたことの反映でしょう。そこでクレソンの山盛りのサラダ(この地の名物です)を食べていた男は、カストルプという名前を与えられているように、トーマス・マンの小説『魔の山』に関連づけられていますが、私にはこの男は「リヒャルト・ゾルゲ」であるように思われました。
それはともかく、本作は宮崎氏の現時点での代表作と言って良いような傑作と思います。一見を強くお勧めする次第です。
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