※海外に住む日本人は約130万人。それぞれが異なる事情を抱え、日本では起こり得ないようなことも経験しながら、日常を生きている。連載「在外日本人リアルライフ」では、彼らのストーリーと、そこから垣間見えるその国のリアルな姿をお届けします。
羽田から北京首都国際空港に降り立ち、エレベーターに乗る。その瞬間、筆者はいつも「鎧」を着込む。順番を待たずに割り込んでくる人々の中で、気を抜けば押し負けてしまいそうになるからだ。過酷と言われる中国ビジネスは、まさにその延長にある戦場――そう思っていた。
JTB中国・北京分社の現地採用から、初の女性北京事務所所長・北京分社総経理代理に抜擢された遠藤直美さん。中国人スタッフを率い、中国系企業と競合しながら現場を仕切る彼女は、一体どのように障壁を突破し、戦ってきたのか?
こう聞くと、遠藤さんは、人懐っこい大きな目を見開いて、未来を見るように言う。
「突破したという感覚はないんです。25年間で身に着けたのは、中国の人との戦い方ではなかった」
とはいえ、順風満帆だったはずはない。
「もちろん、失敗は山ほどありましたよ。例えば、部下が退職し、彼が担当していたクライアントも一緒に離れていきました。こういうことは、一度ならずありました」
優秀な人材とクライアントの流出という二重の困難に頭を抱えたという。やっぱり、と身を乗り出した筆者に、彼女は穏やかに続けた。
「でも相手を恨みはしませんでした。問題は他者ではなく、私たちに足りないところがあるはずだと考えて、改善方法を模索しました」
「だから、戦った感覚はないんです」。遠藤さんは言う。
では、どうやって多くの困難を乗り越えてきたのだろうか? 少し時計を戻し、その歩みをたどってみよう。

大学時代から旅が好きで、世界各地を歩き回った。はっきり感じたのは世界にはいろいろな物差しがあるということ。日本の固定観念に縛られないで生きたいと思った。写真は中国甘粛省敦煌ヤルダン国家地質公園にて(写真提供:遠藤直美)
ガンジス川で泳ぎ、シルクロードを歩いて考えた「物差し」
遠藤さんは、学生時代はバスケットボールに没頭し、県代表選手にまで上り詰めた。忍耐強さと集中力、タフな体力に裏打ちされた突破力は、この時の賜物だろう。
一方で、中高生の頃から漠然と、自由な発想のまま生きられそうな海外に行ったらもっとワクワクできそうだな、という思いがあった。
旅が好きで、1カ月かけてインドを回り、ガンジス川で泳いだ。かつて見たことのないスケールの混沌を体感した。大学では中国語を専攻し、1年間休学して北京の大学に留学。留学中は中国のチベット自治区で1カ月、カシュガル、ウルムチ、敦煌などシルクロードでも1カ月旅をした。
いつかは日本を飛び出すという予感と共に世界を見て歩いていた。
旅をして、こう、はっきり思った。
「世界にはたくさんの物差しがある」
「日本の固定観念に縛られない生き方をしたい」
大学卒業後は東京の小さな中国系旅行会社に営業職で就職。出来高制だったので基本給は低く、貧乏生活だった。3日分の昼ご飯を8個入り200円のコッペパンでしのいだ。
でも、ひもじいとは感じなかった。習った中国語をたくさん話せて、お給料をもらえる学校のようだった。慣れてきて猛烈に働くと、営業成績は驚くほど伸び、3年後には3倍を稼ぎ出していた。
その頃、将来の自分を想像してみた。どうなるか分からない世界に羽ばたきたい。ちんまりと家に入るのは無理だと思った。そんな中で、偶然、中国の人と仕事で知り合ったのがきっかけとなり、2001年に中国に渡った。自分の未来が想像できない。そのこと自体にとてもワクワクした。
当時の北京は中国がWTOに加盟し、2008年の北京オリンピック開催が決まった超高度成長期。外国文化や外国人にも開放的で、「明日はもっと良くなる」と誰もが信じ、街全体が高揚していた頃だ。
北京に来てすぐに、JTB北京の現地採用試験を受けた。旅好きで語学力も、旅行会社勤務の経験もある。4人の面接官中3人が快諾。しかし、1人が「女性なのに背が高くて威圧的」と反対。危うく落とされそうになった。
本当に「威圧的」だったのは、昭和の小さな物差しのほうだ。しかし、175センチという身長だけでなく発想もビッグな遠藤さんは、そうした固定観念を乗り越え、GDPが2桁成長という高速発展を遂げる北京で猛烈に仕事に打ち込んだ。
そうして、あっという間に20年が過ぎた。遠藤さん率いるチームは2021年、JTBグループ社員約2万人の中から選ばれ、社長特別賞を受賞。後述する業務上の「ウルトラC」が会社全体から評価されたためだった。
2025年からは、JTB北京事務所所長・法人会社JTB北京分社の総経理代理となった。現地採用者の女性が海外現地法人の責任者に抜擢されたのは初めての人事だ。一体、何が彼女をこんなに例外だらけにしたのだろうか?