アメリカ在住の日本人として、X(旧Twitter)で発信を続けるナカジマツネヒサさん(48歳)。底辺から這い上がり、現在は日系IT企業の現地法人でCOO(最高執行責任者)を務めるという異色の経歴を持つ。
2.4万人のフォロワーを持つXでは、リアルな体験談をつづり、時にはアメリカや日本について歯に衣着せぬ発言をする。在米22年。アメリカに渡ったのは、米同時多発テロの後、2004年だった。
ナカジマさんは離婚を経験し、その後、アメリカの市民権を取得して、2019年、41歳で日本国籍を喪失している。つまり厳密にはもはや「日本人」ではなく、再婚して子をもうけ、カリフォルニアで生きる日系アメリカ人1世だ。
アメリカでどんな生活を送ってきたのか。どうやってキャリアアップしたのか。なぜXで発信するのか。
今回インタビューをして分かったのが、ナカジマさんにとって最大の転機は、渡米した2004年でもアメリカ人になった2019年でもなく、2010年だったということだ。
グリーンカードの抽選に応募、一発で当たった
静岡から上京し、東京で暮らしていた20代のナカジマさんは、何者でもなかった。大学を中退し、ベースを手に、音楽で生きていこうとしていた。肩書きも、学位も、安定した仕事もない。結婚してはいたが、若い夫婦の生活は決して豊かではなかった。
2001年9月11日、アメリカで起こった同時多発テロは世界中を震撼させたが、そのときナカジマさんは、当時勤めていたコールセンターで職場仲間とその話をしながら、ひとりこう思っていた。
「今年は、誰もグリーンカード(アメリカ永住権)の抽選に応募しないんじゃないか」
英語はまったく話せなかったが、11月から受付が始まるグリーンカード抽選プログラムに夫婦で応募することにした。申し込んだときには当選したような気分になっていたというが、通知が届くのは半年先だったので、やがて応募したことも忘れてしまった。
「ジャズをやっていたので、アメリカに憧れはありました。自分たちの音楽は、本物ではないんじゃないか、偽物なんじゃないかという感覚があった。いつか本場を経験したいと思っていました」
翌年のゴールデンウィーク。帰省から東京のアパートに戻ると、郵便受けに巨大なアメリカサイズのオレンジ色の封筒が差し込まれていた。「Congratulations」から始まる書類。当選者は妻だった。
「本当に当たっちゃった、という感じでした。一発で当たったので、これはもうアメリカに来いと言われているんだろうと思ったんです」と、ナカジマさんは振り返る。
1年半後の大使館での面接を経て、2004年、20代の若い夫婦は渡米した。英語力も人脈も、仕事の当てもなく、ただ合法的にアメリカで暮らせる永住権だけを手に。
月収は1000ドル、音楽も十分な収入にならなかった
親戚で唯一アメリカ駐在経験のあった叔父に「ベイエリアは住みやすいぞ」と言われ、カリフォルニア州サンノゼに降り立った。ナカジマさんはジャズミュージシャンを目指していたので、本当はニューヨークかニューオーリンズに行きたかったが、仕方がない。
アメリカでの生活に不可欠な社会保障番号(SSN)を手に入れ、運転免許証をそろえ、ユニオン・バンク・オブ・カリフォルニア(当時)で口座を開いた。
よりサンフランシスコに近いバークレーで生活を始め、英語力を上げるため、無料で受講できた地元の成人向けスクールにも通った(もっとも、よく喋るヒスパニックのクラスメイトたちについていけず、ドロップアウトしたという)。
あとは仕事だった。
日本食レストランの厨房で働き、最下層のポジションから仕事を覚えた。厨房の従業員はほとんどメキシコ人で、彼らにいじめられたり、からかわれたりしながら生活費を稼いだ。
ナカジマさんの記憶によれば、時給7ドル、月の収入は1000ドルに行くか行かないか程度だったという。留学生のウエイトレスたちが楽しそうに見え、自分だけが貧しく苦しんでいると感じていた。
一方、肝心の音楽も、生活を支えるほどの収入にはならない。一晩演奏して数十ドル。時には実力のあるミュージシャンの西海岸ツアーに参加したが、年に一度あるかどうかの仕事だ。
ジャズをやるために来たものの、実際に加わったのは、ポルトガル人のファド(民族歌謡)やセネガル人のアフリカ音楽、台湾人のチャイニーズロックといった音楽のバンド。後にはR&Bやヒップホップ、スムースジャズも演奏した。


このままではいけない、自分で商売をするしかない――。
日本の知人から個人輸入代行を手伝ってもらいたいと相談を受けたのをきっかけに、ナカジマさんはホームページ制作やシステム開発を手掛ける小さな会社を立ち上げる。27歳。レストランの仕事は辞めた。
「キツい下っ端の仕事を一刻も早く辞めたかった。会社の展望は何もなかったけれど、手に入れた社長という響きは心の隙間を埋めてくれました」
コンピューターの学位があったわけでも、企業経営の経験があったわけでもない。若さと勢いに任せた起業だった。顧客を探すため、狭い日系社会の中で営業に駆け回った。
だが結局、資金繰りがショートし、2年ほどで事業を畳んだ。そこでナカジマさんは、再起を賭け、ラスベガスに向かう決意をする。
「行きたいなら、ひとりで行って」――当時、日系企業で事務職の仕事をしていた妻にはそう言われたという。
ラスベガスで日本人に無修正DVDを売っていた
ホテルやカジノが並ぶ街なら、まだ生バンドの需要があるはずだ。日本の音楽の師匠からは、かつてキャバレーなどで年間を通じて演奏し、腕を磨いたという話を聞いていた。ナカジマさんはベースを車に積み、単身ラスベガスに向かった。
ミュージシャンの労働組合に加入すると、所属ミュージシャンの名前や連絡先の載った名簿を渡された。事務局からは、片っ端から電話をかけて、自分で仕事を探せと言われた。
名簿に載っていた日本人を訪ねた。腕のいいピアニストだと聞いていたが、待ち合わせ場所は音響機材会社の倉庫だった。
現れたのは、作業着姿の日本人男性だ。
「君も早くラスベガスから出たほうがいい」
「え、なんでですか」
「もうここに仕事はないんだ」
そこで直面したのは、時代の変化だった。カジノやホテルの音楽は、すでに生バンドからDJへ移っていた。そのピアニストも普段は倉庫で働き、パーティーや結婚式など、演奏の依頼があったときだけステージに立つのだという。
ナカジマさんは治安の悪い地域の一軒家でハワイ出身のミュージシャンたちと共同生活を送り、郊外の小さなクラブで時々演奏し、在住日本人向けに日本のテレビ番組のビデオを貸し出すレンタルビデオ店で働いた。
ビデオ店の一番の上客は、実は在住者ではなく日本からラスベガスに来る出張者で、ナカジマさんは彼らに無修正のアダルトDVD(アメリカでは合法)を売っていたという。
食事はビーフジャーキーとバドワイザー。クレジットカードはいつもリボ払い。もちろんギャンブルをするような金はなく、生活も服装も荒れていて、当時はよくYouTubeで「日本はすごい」系の動画を見ていた“ネトウヨ”だったという。