Satoshi Sugiyama Kentaro Okasaka

[東京 12日 ロイター] - トヨタ自動車の奥田碩元会長が死去した。93歳だった。創業家が経営を担うことの多かった日本最大の自動車メーカーで、豊田家以外から選ばれたトップとして海外展開を大幅に拡大し、トヨタの世界的地位を確立した。

死因などは明らかになっていない。トヨタによると、遺族の意向で家族葬とし、お別れの会などの開催については未定。

奥田氏は1995年にトヨタ社長に就任。当時、日本の自動車産業は米国との貿易摩擦と円高に直面していた。奥田氏は海外に生産拠点を広げる戦略を推進し、販売拡大につなげた。ガソリンと電動モーターを組み合わせて走るハイブリッド車「プリウス」の開発も後押しした。創業者の孫をトップに据える人事を縁故主義だとして公然と批判した点でも、稀有な経営者だった。

奥田氏は32年、証券会社を営む三重県の裕福な家庭に生まれた。55年にトヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)に入社し、配属された経理部では役員の接待費を含む経費管理も担当した。

奥田氏は日本経済新聞に対し、不透明な取引については、上司や取締役にも臆せず問題を指摘していたと語っている。

「社内では『生意気だ』と煙たがられました。しかし、こんな業務を10年間やり続けると、一種、経営者的な観点から会社を網羅的にみられるようになります」。日経新聞は2013年、連載記事「社会に出て行く君たちへ 先輩からのメッセージ」で奥田氏のこんな発言を掲載している。

奥田氏は病に倒れた豊田達郎氏に代わり、28年ぶりに豊田家以外から選ばれたトヨタのトップとなった。社長就任時には、日本国内での市場シェア低下に加え、日本からの輸出減と円高という問題に直面していた。

就任翌年の1996年、奥田氏は「トヨタ2005年ビジョン」戦略を発表した。技術開発コストを削減し、輸出依存を減らす一方、主要市場で現地生産を拡大するものだった。10年間で海外販売は2倍以上に増え、トヨタ全体の販売を67%押し上げた。

また、世界初の量産ハイブリッド車の実現に強いこだわりを持ち、当初計画を1年前倒しして97年にプリウスを発売する決断に大きく関与した。

奥田氏は、創業家の影響力にも挑戦した。99年に会長に就任し、翌年に豊田章男氏が取締役に加わる前、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙に対し、創業者の孫である豊田氏は単に経営権を与えられるのではなく、トップにふさわしいことを証明しなければならないと語った。

豊田章男氏は2009年に社長となり、23年には会長に就任した。

同紙は奥田氏の次の発言も伝えている。

「章男クラスの人材は、トヨタの中にジャガイモのようにいくらでも転がっている。豊田家はいずれ、会社の創業を象徴し、年に一度、敬意を表しに行くような『神社』のような存在になるだろう」

奥田氏は06年に会長を退任した。02─06年には経団連(日本経済団体連合会)会長を務め、その後に国際協力銀行(JBIC)総裁にも就いている。経団連で奥田氏の後任会長を務めたキヤノンの御手洗冨士夫氏は12日、奥田氏は「今日の日本企業の海外展開や東アジア経済圏との結びつきの礎を築かれた財界外交の先導者」だったとの追悼メッセージを発表した。

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