<高度経済成長、テレビ全盛期…日本の発展と共に生まれたスター形成のメカニズムと、その終焉の意味について>
2026年5月31日、アイドルグループ・嵐が活動を終了した。1999年のデビュー以来、26年半にわたって第一線で活躍し、その人気と知名度は「国民的」とまで形容された。活動終了後の報道では、「最後の国民的アイドル」と位置づける論調も少なくなかった。
だが、それが「最後の」とも称され、実際にそのような感覚が漠然と共有されているのはなぜか。おそらく、そこにはテレビというメディアが、「国民的人気」を支えることがもはやできないという予感があるからだろう。
なぜ私たちは嵐を「最後の国民的アイドル」と感じるのか。『〈帝国〉と身体──ジェンダー史からの問い』(共著、白水社、2026年)の「歴史のなかのジャニーズ性加害問題──「アメリカ」の夢と暴力」と題した論考で、ジャニーズ事務所の歴史を二つの東京オリンピックのあいだに位置づけながら、「国民的人気」がどのように形成されたのかを考察した。
それはワシントン・ハイツからはじまった
1953年の本放送の開始以来、テレビは「三種の神器」のひとつとして高度経済成長期の日本社会に浸透し、やがて豊かさや理想的な家族生活を実現する装置となっていった。
そのなかでテレビは、力道山、長嶋茂雄、東洋の魔女、ザ・ドリフターズ、あるいは「NHK紅白歌合戦」、「おかあさんといっしょ」、「笑点」、アニメ「サザエさん」など、「国民的」な人気者や番組を生み出していった。
「国民的」という冠は、現代的な語というよりも、まずは1960年代前後のテレビ文化との関係をいっそう強く想起させる表現だ。「最後の国民的アイドル」という呼称は、こうしたテレビの時代がもう戻ってくることはないだろうという諒解に基づいている。
だが、そもそも21世紀のインターネット時代を迎えてなお、「国民的」な人気がテレビを通じて維持されていたこと自体、むしろ例外的なことだったとみた方が適切だろう。では、嵐がどのようにしてそんな特別な地位を築いていったのか。その一端を、東京オリンピックの残影という側面から考えてみたい。
ジャニーズ事務所は、1962年に始動し、最初のアイドルとなる4人組グループ「ジャニーズ」が結成された。そのころ、ジャニー喜多川は、在日アメリカ大使館の職員として米軍住宅施設「ワシントン・ハイツ」で暮らしていた。ジャニー喜多川は、プライベートで少年野球のコーチとして活動しており、ジャニーズは、もとはワシントン・ハイツから生まれた少年野球団だった。
ジャニーズは2年の下積みを経て、1964年にレコード・デビューを果たす。これは、ちょうど1回目の東京オリンピックが開催された年である。
ワシントン・ハイツは、このオリンピックを機にアメリカから日本に返還されて米軍の手を離れ、代々木選手村として再出発していった。この地には、丹下健三の設計した国立代々木競技場が建設され、オリンピック後は代々木公園となり、NHK放送センターが移転してくることにもなる。
ジャニーズ事務所の始まりと1964年の東京オリンピックは、時期を同じくしていたが、その終わりは東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会と偶然にも重なっていた。