ここで壊されているのは、カメラを媒介にする第四の壁だけではない。映画と現実の境界そのものだ。

そこにカメラがあるという意味では、劇映画もドキュメンタリーも変わらない。被写体はカメラを意識し、撮る側もまた、存在することで現状に干渉する。客観性という神話は最初から成立していない。カメラが捉えるのはカメラによって変質した現実だ。決してありのままではない。

ただし、劇映画におけるこうした試みはアレンが嚆矢(こうし)ではない。映画の文法が確立していなかったサイレント期、チャプリンやキートンはしばしばカメラ目線を使っていたし、フランスのヌーベルバーグではゴダールの『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』を筆頭に、映画の虚構性を自ら暴く映画が多く作られた。フェリーニの『8½』も過去と現在が錯綜する。

でも『アニー・ホール』は壊し方が半端じゃない。しかもゴダールを含めて前衛的な監督たちは政治や社会へのアンチテーゼを裏のテーマとしていたけれど、アレンは社会や政治をほぼ語らない。ただの恋愛映画なのだ。

背が低くて風采の上がらないユダヤ系アメリカ人であるアルビー(またはアレン)が追想する過去の彼女であるアニー(または実際に数年前までは恋人だったダイアン・キートン)への未練だ。

本人は「自伝ではない」と否定しているが