
悲嘆は学習の一形態
臨床的な側面から言えば、悲嘆とはいずれ通り過ぎる感情ではない。誰かが永久にいなくなった世界で生きることを、脳が学ぶ方法だ。
アリゾナ大学の心理学教授で『悲嘆の脳科学』(邦訳・青土社)の著書があるマリー・フランシス・オコナーは、この問題を相反する情報の問題として説明する。
私たちが誰かと深く結び付くとき、相手がパートナーでも親でも子供でも、脳は共有されたアイデンティティー、つまり「私たち」を符号化する。「愛する人が生きているとき、それは非常にうまく機能する」と、オコナーは語る。
「相手が目の前にいなくても、その人は生きていて、自分を待っていると信じられる」
その前提を壊すのが死だ。記憶のシステムは、その人がいなくなったことを理解する。しかし愛着のシステムは、存在することを期待し続ける。
「その人が、いなくなった存在であり、同時に永遠に存在するものでもある、ということはあり得ない」と、オコナーは言う。「だから、『ああ、脳の中にあるこの2つの認識は両立しないのだ』と気付くたびに、悲嘆の波が押し寄せる。世界を新しい形で理解しなければならないからだ」
その意味で、悲嘆は学習の一形態だ。AIによる悲嘆テクノロジーが複雑になるのは、この点だ。死者を過去形に位置付ける写真や形見とは違い、グリーフボットは現在形で作動する。記憶を呼び起こすだけでなく、返事をする。
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