〈妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

 お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。

 片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです〉(『通州事件 目撃者の証言』)

結局、通州に約300人いた日本人のうち、実に200人以上が犠牲になったとされる。

無論、当時の日中関係において、日本側が全くの無謬であったはずがない。しかし、日本の近代史教育では「日本が加害者」である事件ばかりが強調して教えられ、「日本が被害者」の事件はほとんど触れられない。その結果、全体としてのバランスを欠いた歴史教育となってしまっている。

だが、実際の戦争とは、相互性の中で拡大していくものである。一方が絶対的な加害者で、もう一方が絶対的な被害者であるという歴史認識にとらわれてしまっては、史実を大きく見失うことになる。意図的なトリミング(切り取り)をすることなく、丁寧に歴史を見ていく姿勢が重要である。

オトポール事件〈日本軍人によるユダヤ難民救出劇〉

「日本人によるユダヤ難民救出劇」と言えば、杉原千畝による「命のビザ」が有名である。しかし、実際にはもう一つ、救出劇は存在した。それが陸軍軍人・樋口季一郎が主導した「オトポール事件」である。

昭和13(1938)年3月8日、満洲国とソ連の国境に位置するソ連領・オトポールに、ユダヤ人の難民が姿を現した。ナチスの弾圧から逃れるためにドイツなどから退避してきた彼らは、シベリア鉄道に乗ってオトポールまでたどり着いたが、満洲国外交部が入国を拒否したために立ち往生していたのである。

その話を聞いて動いたのが、ハルビン特務機関長の樋口季一郎だった。ポーランド駐在の経験などがあった樋口は、ユダヤ人問題を深く理解していた。樋口はこの難民問題を「人道問題」として、彼らに特別ビザを発給するよう満洲国側に指導した。当時の日本はドイツと友好関係を深めていたが、樋口は自身の失脚も覚悟したうえで、難民救済を決断した。

結局、難民たちには「5日間の満洲国滞在ビザ」が発給されることになった。

3月12日の夕刻、ハルビン駅にユダヤ難民を乗せた特別列車が到着。難民たちは近隣の商工クラブや学校などへ速やかに収容された。当時、この難民救出劇を現地で目撃していたユダヤ人のテオドル・カウフマンは、樋口についてこう書き記している。

〈樋口は世界で最も公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考えている〉(『The Jews of Harbin Live on in My Heart』)

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