ウクライナの首都キーウに対するロシア軍の攻撃により、キーウ・ぺチェールシク大修道院の生神女就寝(しょうしんじょしゅうしん)大聖堂が炎上した。修道士や消防隊員らは、何世紀にもわたりウクライナの文化的アイデンティティーの象徴であり続けてきた歴史的建造物から遺物や美術品を運び出した。

【動画】炎上するぺチェールシク大修道院の生神女就寝大聖堂

ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産にも登録されている同修道院は、今年1月にもロシア軍の攻撃により被害を受けている。

ウクライナの文化的遺産に対する攻撃には、ロシアの焦りが透けて見える。戦場で実質的な戦果を上げられず、宗教的・文化的に重要な場所を攻撃することにより、ウクライナの人々の士気をくじきたいのだろう。

ぺチェールシク大修道院は1051年、現在のキーウを中心とする広大な地域に栄えた「キエフ大公国」のヤロスラフ賢公の治世下に建立された。そしてその後の長い歴史を通じて、侵略者が襲来するたびに被害を受け続けてきた。例えば13世紀には、モンゴル帝国のキーウ侵攻により破壊されている。前回の大規模な破壊はナチス・ドイツ占領下の1941年、撤退するソ連軍によって行われた。

ペチェールシク大修道院の特徴の1つが広大な地下洞窟だ。ウクライナ語で「洞窟」を意味する「ペチャラ」という言葉が修道院の名称の由来になっている。

洞窟は修道士たちが隠遁生活を送り、祈りをささげる聖なる場所であり、特に敬虔な修道士たちの墓所にもなった。ここには、古い宗教文書や木工芸品、聖像画も多数保存されている。同修道院は、この地域のキリスト教東方正教会の布教の拠点となってきた。

多くのウクライナ人にとってペチェールシク大修道院は、ウクライナが現代ロシアの一部ではなく、キエフ大公国の流れをくむことを象徴する存在としての意味を持っている。

ロシア帝国、ソ連、そして現在のロシアは、キエフ大公国の歴史を自国の歴史の一部として取り込もうとしてきた。それに対しウクライナの人々は、そのようなロシア側の歴史観への拒絶を象徴する存在として、この修道院を位置付けてきた。

ロシアは、キリスト教の信仰の面でも長くウクライナのアイデンティティーを支配してきた。その支配は、東方正教会で最も高い権威を持つコンスタンティノープル総主教庁(現トルコ・インスタブール)が1686年にウクライナの正教会をロシア正教会の管轄下に置くと決定して以来、300年以上続いた。この決定が取り消されて、ウクライナの新しい正教会がロシア正教会から正式に独立したのは、2019年のことだ。

ペチェールシク大修道院がユネスコの世界遺産に登録されたのは1990年。生神女就寝大聖堂は98~00年に、ウクライナ政府によって再建された。

ロシアがペチェールシク大修道院を攻撃したことは偶然ではない。ロシア正教会のトップであるキリル総主教は、ロシアによるウクライナ侵攻を「聖戦」と位置付けてきた。この修道院には、12世紀にモスクワを建設したキエフ大公ユーリー・ドルゴルーキーの遺骨が安置されているといわれるが、ロシアが攻撃を思いとどまることはなかった。

このウクライナの神聖なる建造物への攻撃は、ロシアがウクライナの歴史とアイデンティティーを消し去りたいという切迫感を強めていることの表れと言えるだろう。
The Conversation

Anastasiya Byesyedina, PhD Candidate, Department of Government and International Relations, Sessional Teacher and Student Writing Fellow, University of Sydney

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【動画】炎上するぺチェールシク大修道院の生神女就寝大聖堂
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